第一次拓殖の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:55 UTC 版)
占守島における郡司らの越冬は、特に問題もなく過ぎた。心配されていた脚気に罹るものもおらず、またサケやマスが無尽蔵に獲れたことなどもあって食料にも困らなかった。春が訪れて島の雪が溶けだした頃には、島を精力的に探険する余裕もあった。しかし、他の島における越冬は、郡司らのように順調にはいっていなかったのである。1894年(明治27年)5月10日、島の周囲の流氷が流れ去ったため、郡司たちは和田の安否を確認しようと艀で幌筵島へと渡った。しかし、着いてみると和田は小屋の中で死体になっていたのである。傍らに残されていた日記から、和田は脚気に罹って4月上旬ごろに衰弱死したことが判明した。 そして6月28日、再び磐城が占守島に現れた。ここで郡司は、衝撃的な事実を知らされる。捨子古丹島で越冬していた9人が、全員死亡・行方不明となっていたというのであった。まず、9人のうち高橋ら4人は、小屋の中で全員死体になっていたという。磐城の軍医によれば、死因は明らかに窒息死であり、寒気を防ごうと密閉した小屋の中で焚火をしたための一酸化炭素中毒であろうとのことであった。小屋に残されていた日記には、彼らが脚気に罹って衰弱していたことが記されており、また高橋の死体には戸口の方に這っていった痕跡があったことから、体の自由がきかず逃げ出すことができなかったと推測されている。そしてこの日記からは、残る5人は10月に食料補充のため越渇磨島に出漁し、そのまま帰還しなかったということも判明した。白瀬は後に、艀が流されて越渇磨島から帰還できなくなり餓死したか、帰航の途中で船が沈んだのだろうと推測している。 磐城が告げた衝撃的な事実はもう一つあった。日清間に緊張が走っており、戦争になるかもしれないという情報である。この時占守島にいた7人は全員が予備役とはいえ軍人であり、戦争となれば召集される可能性があった。郡司は軍人としての使命と千島拓殖という自らの夢の間で悩んだが、磐城艦長柏原長繁の強い説得もあり、占守島引き揚げを決意する。 この時、郡司は当初全員を引き揚げさせる予定であったが、それに異を唱えた人物がいた。択捉島から報效義会員5人を引き連れて磐城に便乗していた郡司の実父・幸田成延である。成延は、占守島の拓殖を完全に途切れさせるべきではないとして、連れてきた会員5人と自分が島に残留すると主張したのである。 郡司としては、若者であっても生きていくのが厳しい極寒の地に老父(成延の正確な生年は不明だが、この時60歳前後であったと推測されている)を残留させることは到底できなかった。また、新たにやってきた5人の会員は越冬の経験も浅く、もし彼らを残留させるのであれば、経験の豊かな人間による統率がなければ捨子古丹島の二の舞になるのは目に見えていた。しかし、成延の「占守島の拓殖維持」という意志は固く、最終的に郡司は、白瀬に5人を率いての残留を頼みこむことになる。白瀬も当初はこれを渋ったが、最終的に郡司の頼みを受け入れることとなった。この決定で成延も翻意したため、郡司らは占守島を去った。 一方、島に残った白瀬らであったが、彼らの越冬は凄惨なものとなった。6人中3人は脚気のため死亡し、白瀬を含む生き残った3人も愛犬を射殺してその肉を食べることでかろうじて命をつなぐほどの危機に追い込まれたのである。白瀬らは、1895年(明治28年)8月になって、北海道庁長官の命で差し向けられたラッコ猟漁船に救助されて千島から帰還し、ここに報效義会の第一次千島拓殖は終わりを告げた。
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