第一次戦役
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1788年夏、ネパールは上記のチベットの協定違反を理由として、執政のダモダル・パンデ、バム・シャハを指揮官にケルンとクティを攻撃・占領し、要衝のゾンガ、シカールゾンを制圧した。また、国境近くのキロン、ニャラム、ツォンカの砦、シカツェ沿いの家々も占拠した。 チベットの宗主国である清は状況の把握、および収拾のために御前侍衛大臣のバジュン(巴忠)を派遣した。その結果、翌1789年7月にバジュンの仲介でネパールとチベットは講和し、ケルン協定が締結された。 協定はネパールに有利であった。チベット側がネパール側に毎年5万1ルピーをネパールに支払うことが定められたほか(資料によれば年間11トン以上の銀)、ネパールはチベットの貨幣を鋳造し、占領した国境の商業都市をチベットに返還することが定められた。これにより、ネパールはチベットから撤退した。 だが、この協定はチベット側の人々全員がよしとしたわけではなく、ネパール有利であったために、批判も多かった。協議の責任者であるアムバン(駐蔵大臣)は北京に帰ったのちに自殺した。
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第一次戦役(212年 - 213年)
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「濡須口の戦い」の記事における「第一次戦役(212年 - 213年)」の解説
212年10月、前年に馬超以下関中の軍閥を破った漢の曹操は、自ら孫権征討の陣頭指揮を執った。馬超を倒した以上、曹操は西部にまわす兵力をある程度減らす事も出来、さらに関中以西の動員力をある程度掌握していたはずで、この時曹操が指揮を執っていた軍は、赤壁の戦い以上の大軍であった可能性もある。 同年、曹操が来侵しようとしていると聞き、呂蒙は濡須口に濡須塢を作った。213年正月、曹操は40万の大軍を率いて濡須口に進め、孫権の長江西岸の陣を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠いた。孫権も自ら防衛の指揮を執ったが、孫瑜はこれを諫めている。董襲の乗艦が夜間の突風で横転、転覆し、董襲は死亡した。この時董襲は部下に下船するように説得されたが、将軍としての責務を説き最後まで艦の復帰を図った。 曹操は夜中出撃し中洲に上陸したが、孫権は水軍の指揮を執り中洲にいる曹操を包囲、3000人を捕虜にし、溺れ死んだ敵兵も数千に上った。孫権は積極的に戦いを挑もうとしたが、曹操が出撃してこないのを見て大船に乗って来て軍を観、曹操は弓弩を乱発させた。箭はその船に著しく、船が偏えが重くなって顛覆しそうになると孫権は船を迴らせ、逆舷にも敵の矢を浴び、艦の均衡を保った。孫権が帰還して楽隊に盛大に音楽を鳴らさせた。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語ったという。 呂蒙は奇策を度々行い、献策で予め構築しておいた濡須塢が功を奏して曹操は川を下って軍を進める事ができず、曹操は一月余り対峙したあと撤退した。 戦い後、曹操は蔣済の意見に従わなかったため、長江・淮水のあたりに住む10余万の人々はみな慌てて孫権側へ逃げ込んだ。
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第一次戦役(208年)
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「合肥の戦い」の記事における「第一次戦役(208年)」の解説
208年の赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍は烏林で曹操軍を打ち破り、曹操は江陵と荊州の守備を部将達に任せると許昌へ撤退した。周瑜ら孫権軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を指揮して江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。 曹操は張喜と蔣済に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、汝南を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上疫病により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した。 209年、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時期曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。
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