第一次戦闘とは? わかりやすく解説

第一次戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 17:20 UTC 版)

グロリオーソの航海」の記事における「第一次戦闘」の解説

1740年ハバナ進水したスペイン戦列艦グロリオーソはペドロ・メシア・デ・ラ・セルダを指揮官として1747年7月出港してスペイン戻ろうとした。グロリオーソの積荷は約4百万銀貨であった7月25日霧の中ではあったが、アゾレス諸島フローレス島近くイギリス商船隊発見された。正午消えて視界よくなると、イギリス船が10隻もあり、うち3隻が戦艦であることが判明した。3隻の戦艦とは60戦列艦ウォリック英語版)、40フリゲートラルク20ブリッグ1隻だった。 デ・ラ・セルダは戦闘準備したが、同時にそれを避けようとして風上位置維持して積荷保護しようとした。イギリス艦隊はグロリオーソを追撃21時に軽いスループがグロリオーソに追いついて、両艦は砲撃交わした効果がなかった。しかし2時にスコールがおきた結果、グロリオーソは風上位置維持できなくなりイギリス艦隊追いつかれた商船隊護衛艦隊指揮官ジョン・クルックシャンクスはブリッグ商船隊保護命じラルクにグロリオーソの攻撃命じた。この命令結果は、グロリオーソの激し砲火ラルク船体艤装がひどく損傷することだった。続いてウォリック到着してグロリオーソを攻撃したが、逆にマスト全損して撤退余儀なくされた。グロリオーソも船体砲弾4打ち込まれ艤装損傷した。グロリオーソでは死者5人(うち文民2人)と負傷者44人を出したウォリック損傷大きかったが、人員損失戦死4人と負傷20人に留まった。 イギリス海軍本部戦闘について知ると、クルックシャンクス加勢断り戦闘において怠慢があったとして軍法会議かけられ有罪宣告された。彼は階級保持許されたが、海軍からは追放された。

※この「第一次戦闘」の解説は、「グロリオーソの航海」の解説の一部です。
「第一次戦闘」を含む「グロリオーソの航海」の記事については、「グロリオーソの航海」の概要を参照ください。

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