三国鼎立へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:19 UTC 版)
208年、曹操が南征を開始すると、荊州の劉表は死去した。荊州では劉表の後継者争いが起こっており、長男の劉琦を支持する側と、次男の劉琮を支持する側に分かれていが、優勢であった劉琮が荊州牧に就いた。荊州では曹操軍が到来したと知ると、劉琮は王粲の勧めもあり曹操に帰順した。曹操は新野の劉備を攻めようとした。しかし、劉備軍はいち早く撤退したので曹操は軽騎をもって追撃し、当陽県の長坂でこれを大いに撃破した。だが、劉備軍の被害はいたって少なく、彼らは江東の孫権と同盟して曹操軍と対峙するに至った。周瑜は部将黄蓋の進言を採用して、佯降を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり。曹操軍を火計で破った(赤壁の戦い)。周瑜が劉備と再度合流して追走すると、曹操は曹仁と徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退した(「呉主伝」)。 戦後、劉備は劉表の長男の劉琦を上表して荊州刺史に擁立、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得た。敗れた曹操は北へ引き返して、以後は南征を控えて華北の経営と軍事力の回復を中心に行うことになる。孫権は劉備とともに荊州を攻め取った。孫権は南郡を獲得した、劉備は武陵・長沙・桂陽・零陵の大部分を獲得した。ほどなくして劉琦が死去したため、劉備自ら荊州牧となった。その後、劉備は京城で孫権と会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話した。周瑜を失った呉は「劉備と協調して曹操に対抗すべきだ」という魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。 210年、孫権は交州刺史の歩騭を派遣して、交州の実質的な支配者である士燮を服属させた。 この頃、曹操は長江周辺を孫権に奪われるのを恐れて、長江周辺の住民を北方に移住させようとした。だが、強制移住を嫌がった長江周辺の十数万人の住民が、長江を渡って江東(呉)に移住した。 西の雍州・涼州には多くの羌族が住み、豪族たちが割拠していたが、韓遂と馬騰・馬超親子が彼らの盟主であった。曹操の部下の鍾繇・張既は韓遂・馬騰・馬超を後漢と曹操に服属させた。しかし、211年、韓遂・馬超ら豪族連合は曹操に対して反逆し、東征し、潼関まで進出したが、曹操に大敗した(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが韓遂・馬超ら雍州・涼州の豪族の勢力を壊滅させ、雍州・涼州を平定した。これで曹操は河北・中原地域を完全に領有することとなった。 213年、曹操は軍を濡須口に進め、孫権も自ら軍を率いて防衛にあたった。呂蒙、甘寧の活躍もあって、曹操はしばらく対峙したあと撤退した。(濡須口の戦い・第一次戦役)。 213年、董昭の発案により、曹操は魏公となり、216年には曹操は魏王となった。 214年、劉備は張松・法正・龐統の謀略を用いて、劉焉の子の益州刺史の劉璋を攻め降し(入蜀)、荊州に加えて益州も領有した。 同じ頃、孫権は呂蒙、甘寧、凌統らと出陣し、廬江郡の皖城を奪取した。 劉備が益州を奪取した後、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡を要求したが、劉備は涼州を手に入れてから荊州を再分割しようと答えた。そこで業を煮やした孫権は怒り、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙を派遣し、長沙・桂陽・零陵を攻略させた。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになった。 215年、このような劉備と孫権の険悪な情勢の中で、曹操は漢中にいた五斗米道の張魯への攻撃を開始し降伏させた(陽平関の戦い) 。このことに危機感を抱いた劉備は魯粛の取り成しもあり、長沙・桂陽を孫権に割譲し和解した。荊州統治の係争が一応の解決を見て、孫権は10万の大軍を率いて合肥城を攻め、撤退時に張遼らの追撃を受けたが、呂蒙・凌統らが懸命に孫権を守った(合肥の戦い)。荊州を巡る一連の紛争は両者の間に大きな禍根を残すことになった。 ここで三国鼎立の形が定まった。
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