三国隠居処の誕生と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 09:43 UTC 版)
「伊藤五右衛門 (幕末)」の記事における「三国隠居処の誕生と歴史」の解説
三国隠居処の誕生は、かつて伊藤五右エ門が、1860年(安政7年)に宿浦の庄屋を務めていた時代まで遡る。この当時、安政の大獄(安政6年)により福井藩主、松平春嶽公が隠居を命ぜられたが、嫡男がいない為、糸魚川藩より茂昭を養子に迎えた。この茂昭公の初のお国入りを対応したのが伊藤五右エ門であり、当時の詳細な記録は、前述の「五右衛門の日記」にも記載されている。なお、同じく晩年、松平春嶽公の教育係として御用掛をしていた中根雪江も、宿浦(現在の宿地区)で隠居しており、明治4年から10年までの6年間は、晴耕(漁)雨読の生活を営み、その隠宅のことを「煙波楼」(えんぱろう)と呼んでいた。この、隠宅「煙波楼」が、庄屋をしていた伊藤五右衛門の所有になったことから、伊藤五右エ門の屋敷が「隠居処」と呼ばれるようになった。なお、五右エ門が晩年、屋敷を人々に開放したことなどから、「隠居処」には、地域の人々が集うようになり、後にそれが、簡易宿舎、旅館業に転身し、伊藤旅館として平成17年まで営業をしていた。
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