三国連合の襲来
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かつて王浚は自らの妻の兄弟にあたる崔毖を独断で平州刺史・東夷校尉に任じ、東方異民族の管轄と遼西・遼東の統治を任せていた。だが、多くの民は崔毖に靡かずに慕容廆の下に集っていたので、崔毖はかねてよりその人望を妬んでいた。また遼東・遼西に割拠する高句麗・宇文部・段部もまた慕容部の勢力拡大を危惧していたので、崔毖は密かに彼らと連携して慕容部討伐をなさんと企んだ。319年12月、三国は崔毖の呼びかけに応じ、各々軍を動員して慕容部へ侵攻させた。これを受け、慕容部の諸将は迎撃を請うたが、慕容廆は「連合軍は烏合の衆に過ぎず、信頼関係が構築されていないため統制が取れていない。時が経てば必ず内側から綻びを見せるはずであるから、それを待ってから然る後にこれを撃てば、必ず破れるであろう」と述べ、持久戦に持ち込んで内部崩壊を待つよう命じた。 三国が棘城に攻撃を仕掛けると、慕容廆は門を閉じて籠城すると共に、宇文部の下に使者を送って牛肉や酒を手厚く贈り届けさせ、大きな声で「崔毖から昨日、使者が来ましたぞ」と使者に話させた。これを伝え聞いた高句麗・段部は、宇文部と慕容廆が裏で通じているのではないかと疑い、兵を退却させた。だが、宇文部の大人宇文遜昵延だけは攻略の意志を崩さず、兵力は数十万を数え、陣営は四十里も連なっていた。内外の人々は動揺し、慕容廆が裴嶷へ対応策を問うと、裴嶷は「遜昵延(宇文遜昵延)は大軍を擁してはおりますがその軍に号令はなく、もし精兵を率いて隙に乗ずれば必ず捕らえる事が出来るでしょう」と語った。 また、慕容廆は徒河にいた長男の慕容翰に救援を乞うたが、慕容翰は使者を派遣して「今私が城に入ってしまえば敵に城攻めだけに専念させてしまう事となり、加えて防戦一方の逃げの姿勢を部下へ示すことにも繋がり、戦う前に味方の士気を落としてしまうことも懸念されます。私は外で遊撃隊となって敵を撹乱し、隙を見つけてこれを撃ちます」と答えた。これを読んだ慕容廆は、息子が臆病風に吹かれて参戦を拒絶したのではないかと疑ったが、韓寿は「遜昵延(宇文遜昵延)は勢いこそ盛んでありますが、将は軍勢の多さに驕っており、兵卒は怠けており軍律は厳しさを欠いております。もし奇襲を掛けて敵の不意を衝けば、必ず撃破できることでしょう」と進言し、慕容翰の作戦に同意したので、慕容廆も慕容翰が徒河に留まることを許した。 宇文遜昵延は慕容翰が徒河から動かない事を知り、別動隊として数千騎を派遣して慕容翰を襲撃させたが、慕容翰は段部の使者を偽って敵軍を誘い出すと、伏兵をもって一斉に奇襲し、奮戦して敵兵を尽く捕らえる事に成功した。さらに慕容翰は勝ちに乗じると、棘城へ使者を派遣して慕容廆へ出撃を請うた。慕容廆は裴嶷と慕容皝に精鋭を与えて先鋒とし、自身は大軍を率いて後続となり、方陣を組んで進軍した。宇文遜昵延は慕容廆が籠城するとばかり思い込んでおり、全く備えをしていなかったため、その襲来に驚いて慌てて全軍を出陣させた。慕容翰はこの隙に宇文遜昵延の陣営へ突入して焼き払っていった。城の内外から挟み撃ちにされた宇文部軍は大混乱に陥って大敗し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出した。慕容廆は敵の兵卒のほとんどを捕虜とし、更に皇帝の玉璽三紐を手に入れた。 崔毖は三国連合の敗戦を知り、慕容廆に誅殺されるのを恐れ、敢えて知らない振りをして甥の崔燾を棘城へ派遣して戦勝を祝賀させた。だが、それより早く三国の使者が棘城へ到来しており、今回の戦役が崔毖のたくらみである事を告げ、和平を請うていた。慕容廆はそれらの書状を崔燾へ突きつけて武装兵で脅し「汝の叔父は三国に我を滅ぼすよう言っておきながら、今また汝を偽りの賀に赴かせたのか」と言うと、崔燾は恐れて全てを漏らした。慕容廆は崔燾へ「降伏は上策。逃げるは下策である」という伝言を遺し、兵を伴わせながら崔毖の下へ返した。崔毖は数十騎と共に城を棄てて高句麗へ逃げ、その兵は尽く慕容廆に帰順した。また、子の慕容仁を征虜将軍に任じて崔毖に代わって遼東を鎮守させたが、官府や村落には手出しをせず、民衆の生活をこれまで通り保証した。
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