昭和19年中旬の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:11 UTC 版)
「藤波 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年中旬の行動」の解説
6月6日深夜、タウイタウイ近海で駆逐艦水無月(第22駆逐隊)が対潜攻撃中に消息不明となり、駆逐艦早波(第32駆逐隊司令駆逐艦)は捜索と対潜哨戒のため出動したが、6月7日昼頃、アメリカ潜水艦ハーダーに撃沈された。第32駆逐隊は3隻(藤波、浜波、玉波)編成となった。また早波沈没時に艦長の清水逸郎中佐と折田大佐(第32駆逐隊司令)が戦死した(折田大佐は海軍少将に進級)。第32駆逐隊は、一時駆逐隊司令不在となった。そこで玉波艦長青木久治中佐(海兵50期)が6月15日附で第32駆逐隊司令に転任。早波艦長として着任予定だった千本木十三四中佐(海兵52期)が玉波艦長となった。 6月19日のマリアナ沖海戦では、機動部隊丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊主力)に所属して第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)の指揮下で連合軍と交戦する(編成と戦闘経過については当該記事を参照)。マリアナ沖海戦(あ号作戦)は日本海軍の大敗で終わる。前衛部隊では6月20日の戦闘において千代田、榛名、摩耶に爆弾命中や至近弾による損害があった。日本艦隊は6月22日に中城湾に入港。翌23日、第32駆逐隊(玉波、藤波)は中城湾を出港、6月25日にマニラに到着した。さらに昭南(シンガポール)に回航された。 7月2日以降、軽巡洋艦北上と第32駆逐隊(玉波、藤波)は、シンガポールからマニラ経由で日本に向かう旭東丸(飯野海運、10,051トン)の護衛に従事した。7月7日未明、マニラ到着を目前にアメリカ潜水艦ミンゴの雷撃で玉波が沈没した(青木32駆司令戦死、千本木艦長戦死)。第32駆逐隊は夕雲型2隻(藤波、浜波)となった。同日、北上以下船団はマニラに到着。北上は修理のためマニラに残留した。7月10日、駆逐艦藤波、響、夕凪は、旭東丸と速吸を護衛してマニラを出港。5隻(旭東丸、速吸、藤波、響、夕凪)はサンベルナルジノ海峡を経由して、7月17日に呉に帰投した。 詳細は「ヒ71船団」を参照 8月8日、空母大鷹、駆逐艦藤波、夕凪と海防艦複数隻平戸、倉橋、御蔵、昭南、第11号海防艦とともに、タンカー4隻(速吸、帝洋丸〔日東汽船、9,849トン〕、永洋丸〔8,627トン〕、あづさ丸、帝亜丸〔帝国船舶、元フランス船アラミス/日本郵船委託、17,537トン〕)、陸軍特殊船、貨物船、給糧艦伊良湖などからなる重要船団『ヒ71船団』(指揮官:第六護衛船団司令官梶岡定道少将)は門司を出撃。馬公で加入船の顔ぶれを少し改める。第一海上護衛隊の護衛艦艇5隻(佐渡、松輪、日振、択捉、朝風)を加え、8月17日朝に出港した。8月18日朝、被雷した永洋丸と同船護衛を命じられた夕凪が分離する。つづいて同日夜、バシー海峡からルソン島沿岸に至るまでの間にアメリカ潜水艦ラッシャー、ブルーフィッシュ、スペードフィッシュの猛攻を受け、大鷹・速吸・帝亜丸・帝洋丸・陸軍特殊船玉津丸(大阪商船、9,589トン)が沈没して、ヒ71船団は大混乱に陥った。さらに対潜掃蕩に従事していた海防艦3隻(佐渡、松輪、日振)も、マニラ沖合で米潜水艦に撃沈された。藤波もなんとかマニラに到着して船団を再構成し、8月25日-26日に出港した。しかし、マニラから新たに加わったタンカー旭邦丸(飯野海運、10,059トン)が故障を起こして船団から一時脱落し、再合流するまで「旭邦丸」の護衛にあたった。船団は9月1日に昭南に到着し、藤波はその後リンガ泊地で第二艦隊に合流した。 藤波航海中の8月25日、駆逐艦五月雨の座礁放棄のため(総員退去は8月26日)時雨単艦となった第27駆逐隊より、同駆逐隊司令大島一太郎大佐(海兵50期)が第32駆逐隊司令に任命される。当時の第32駆逐隊は前述のように消耗を続け、夕雲型2隻(浜波、藤波)だけになっていた。
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