昭和19年の戦いとは? わかりやすく解説

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昭和19年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 06:46 UTC 版)

風雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説

ろ号作戦実施中1943年昭和18年10月31日附で満潮駆逐艦朝雲第10駆逐隊加入10駆は3隻編制風雲秋雲朝雲)となる。修理終えた後の1944年昭和19年1月17日風雲秋雲横須賀出港し翔鶴瀬戸内海まで護衛した2月6日部隊瑞鶴翔鶴筑摩矢矧秋雲風雲朝雲初月若月)として洲本沖を出撃し、13日昭南到着したリンガ泊地訓練従事するが、瑞鶴修理が必要となったため、2月20日第10駆逐隊瑞鶴護衛して内地むかった27日、呉に到着する3月7日第10駆逐隊瑞鶴重巡洋艦最上第三戦隊(司令官鈴木義尾中将海兵40期)の戦艦2隻(金剛榛名)を護衛して瀬戸内海出撃リンガ泊地向かい3月15日到着した3月20日附で第10駆逐隊司令天野重隆大佐秋月型駆逐艦の第61駆逐隊司令転任し後任10司令赤澤次壽雄大佐(当時涼月駆逐艦長となった3月25日赤澤大佐司令駆逐艦秋雲から風変更するリンガ泊地到着後、第10駆逐隊第十戦隊旗艦矢矧とともに航空戦隊との合同訓練従事した4月11日秋雲アメリカ潜水艦レッドフィンの雷撃撃沈された。第10駆逐隊風雲朝雲の2隻となった5月12日リンガ泊地出撃してタウイタウイ進出しタンカー護衛対潜掃討従事した詳細は「ビアク島の戦い」および「渾作戦」を参照 この頃ビアク島巡って攻防繰り広げられており、帝国海軍渾作戦発動してビアク島救援作戦を展開。5月30日付で第10駆逐隊風雲朝雲)は渾部隊指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官旗艦青葉)に編入される。間接護衛隊戦艦扶桑第10駆逐隊風雲朝雲)、警戒隊(指揮官橋本信太郎第五戦隊司令官中将海兵41期)の第五戦隊妙高羽黒)と第27駆逐隊春雨五月雨白露時雨)は、タウイタウイからダバオ移動した6月2日警戒隊と間接護衛隊扶桑風雲朝雲)は、輸送隊青葉鬼怒敷波浦波)等と共にダバオ出撃する。B-24爆撃機触接されたため、豊田副武連合艦隊司令長官6月3日夜に作戦中止発令した。「敵機部隊発見」は誤報判明したため渾作戦再開されたが、第五戦隊と間接護衛隊扶桑風雲朝雲)は原隊復帰つづいてダバオ回航命じられた。6月5日警戒隊と間接護衛隊扶桑風雲朝雲)はダバオ到着したこのあと渾作戦駆逐艦6隻のみで実施されたが空襲春雨第27駆逐隊司令戦死)を喪失し、さらにアメリカ巡洋艦部隊迎撃されて撃退された(第二次渾作戦)。そこで、連合艦隊第一戦隊司令官宇垣纏中将大和型戦艦大和武蔵および第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将指揮下の水雷戦隊なども投入して上陸船団撃破機動部隊誘い出しを図る事となった。 6月7日夕刻連合艦隊は電令作第124をもって第五戦隊妙高羽黒)と第10駆逐隊風雲朝雲)を渾部隊編入しハルマヘラ島バチャン泊地への進出命じた同日深夜第10駆逐隊風雲朝雲)は第五戦隊妙高羽黒)を護衛してダバオ出撃した。この時、ダバオ湾(英語版)口ではアメリカ潜水艦ヘイク哨戒行っていた。翌6月8日未明ヘイクレーダーは湾の中央高速移動する4つ目標探知午前2時12分、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯0603東経12557分 / 北緯6.050度 東経125.950度 / 6.050; 125.950の地点魚雷を6本発射した。うち2本が風雲左舷中央部左舷艦尾命中搭載魚雷誘爆し、4分で沈没した日本記録によれば午前3時13分に最初魚雷命中して航行不能になり、午前3時35分に再度雷撃をうけて沈没したダバオ湾を警戒中の駆逐艦響と秋霜は、駆逐艦浜風通じて救援要請受けた直ち出動する。各艦は朝雲と共に救助活動従事した乗員のうち136名は秋霜移乗しダバオ向かったが、他の者は全員戦死した風雲座乗中の第10駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐も戦死した少将進級)。 駆逐艦風雲7月10日附で夕雲型駆逐艦帝国駆逐艦籍から除籍された。

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昭和19年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 03:25 UTC 版)

秋雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説

横須賀での二度にわたる整備ののち、第十戦隊秋雲風雲若月)は「翔鶴」を護衛して瀬戸内海向かった訓練の後、2月6日第十戦隊矢矧秋雲風雲若月秋月)は第一航空戦隊翔鶴瑞鶴)、重巡洋艦筑摩護衛して洲本沖を出撃し、リンガ泊地進出した。一旦「瑞鶴とともに呉に戻った後、3月入って大型艦4隻(空母瑞鶴》、戦艦金剛榛名》、重巡最上》)を護衛して再度リンガ泊地進出し各種訓練参加した3月20日附で第十駆逐隊司令天野重隆大佐は第61駆逐隊涼月初月若月秋月司令転任し後任10司令秋月型駆逐艦3番涼月駆逐艦長赤澤次壽雄大となった4月1日第10駆逐隊秋雲風雲)、重巡洋艦2隻(利根筑摩とともに航空基地物件輸送のため昭南シンガポール)を出撃してダバオに向かうが、途中で輸送任務中止となったため昭南引き返した。3隻(利根筑摩風雲)とはここで別れ別途物件輸送のため4月5日昭南出撃して再度ダバオに向かう。4月9日ダバオ到着して燃料航空魚雷などを陸揚げした後、翌4月10日ダバオ出撃してリンガ泊地向かった。しかしその道中でバリクパパンからダバオ単独向かう途中特設運送船聖川丸川崎汽船、6,862トン)と会合しダバオからサンボアンガまで護衛するよう命じられるスールー海から引き返し訓練警戒行いつつバシラン海峡東航してダバオ向かった一方その頃アメリカ軍潜水艦レッドフィン(USS Redfin, SS-272) がバリサン海峡東方哨戒行っていた。4月11日夕刻、レッドフィンは約10,000ヤードの距離でマスト発見引き続き観測する目標秋雲)は吹雪型駆逐艦目されジグザグ航行行っており、18ノット速力航行していると推定された。レッドフィンは艦尾発射管攻撃を行う事とし、1815分、艦尾発射管から4本の魚雷発射した間もなくレッドフィンが発射した最初魚雷は「秋雲」の一番砲塔付近に命中し続いて二番目魚雷メインマスト付近に命中した三番目魚雷命中したが、四番目の魚雷外れた考えられた。秋雲側では4本が命中した判断された。魚雷命中受けて船体45度傾き艦尾海中没していた。秋雲駆逐艦長入戸野篶生少佐は「総員退艦」を令した後、艦橋予備室入って戸を閉め艦と運命をともにした。1817分、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯0645分 東経12241分 / 北緯6.750度 東経122.683度 / 6.750; 122.683のサンボアンガ灯台112度26.7海里地点において沈没した。この光景付近航行中漁船目撃しており、漁船からの通報受けた「第35号駆潜艇」が救助にあたって生存者救助行ったが、乗員のうち入戸野艦長以下133名が戦死し准士官以上8名 と下士官兵108名の計116名が生還した第十駆逐隊は2隻(風雲朝雲)に減少した同年6月10日駆逐艦秋雲」は不知火型駆逐艦帝国駆逐艦籍、第10駆逐隊それぞれから除籍された。なお「秋雲」が除籍され2日前に風雲」も米潜水艦ヘイク(USS Hake, SS/AGSS-256)の雷撃撃沈されている。第10駆逐隊は「朝雲」1隻を残すのみとなった7月10日第10駆逐隊解隊され同艦は第4駆逐隊編入、同隊は駆逐艦4隻(不知火型野分》、満潮型《満潮山雲朝雲》)となった10月25日レイテ沖海戦参加した第4駆逐隊全滅第10駆逐隊所属した駆逐艦秋雲夕雲巻雲風雲朝雲)は全隻沈没した

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昭和19年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 18:21 UTC 版)

熊野 (重巡洋艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説

1944年昭和19年1月1日重巡利根筑摩第七戦隊編入した。1月トラック泊地滞在2月1日トラック出発し8日パラオ移動17日パラオ発、21日リンガ泊地着。3月1日第一機動艦隊第二艦隊司令長官栗田健男中将)に編入される23日筑摩将旗移り熊野第二小隊5番となった3月25日第七戦隊司令官白石萬隆少将交代4月6日熊野第七戦隊旗艦復帰した5月18日以降熊野タウイタウイ泊地停泊した6月13日熊野は同泊地出撃して6月19日マリアナ沖海戦参加する熊野水上偵察機アメリカ軍機動部隊発見し、その位置報告した第七戦隊最上の機動部隊乙部所属)は前衛艦隊司令長官栗田健男中将)に所属し、さらに第十一群空母瑞鳳》、戦艦大和》、重巡熊野鈴谷利根》、駆逐艦早波、浜波、玉波》)を編成して戦闘臨んだ6月19日小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射6月25日日本本土戻った対空兵器などを増強7月8日陸軍部隊シンガポール輸送のため第一戦隊(大和、武蔵)等と共に呉を出撃7月16日シンガポール到着し以後リンガ泊地訓練従事した9月27日通信機を特積する。

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昭和19年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 18:19 UTC 版)

鈴谷 (重巡洋艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説

1944年昭和19年1月1日第七戦隊熊野鈴谷最上)に重巡利根筑摩編入した。1月トラック泊地滞在2月上旬トラック泊地よりパラオ移動17日パラオ発、21日リンガ泊地着。3月1日第一機動艦隊第二艦隊司令長官栗田健男中将)に編入される23日筑摩将旗移り鈴谷第二小隊3番となった3月25日第七戦隊司令官白石萬隆少将交代5月18日以降第七戦隊タウイタウイ泊地停泊して訓練従事した6月13日鈴谷は同泊地出撃し、6月19日マリアナ沖海戦参加する最上を除く第七戦隊前衛艦隊司令長官栗田健男中将第三航空戦隊第二艦隊主力)に所属し、さらに第十一群瑞鳳大和熊野鈴谷利根早波、浜波、玉波)を編成して戦闘臨んだ6月19日小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射海戦敗北後沖縄中城湾補給したのち、鈴谷熊野利根筑摩浜風早霜秋霜時雨五月雨本土へ回航6月25日日本本土に戻る。各艦は対空兵器などを増強した7月8日鈴谷陸軍部隊シンガポール輸送のため第一戦隊(大和、武蔵)等と共に呉を出撃16日シンガポール到着し以後リンガ泊地訓練従事した

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昭和19年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 17:16 UTC 版)

海風 (白露型駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説

1944年昭和19年1月12日、「海風」はウォッジェ環礁陸兵揚陸していた。同日マロエラップ環礁タロア島陸兵揚陸していた「潮」がアメリカ軍B-25中爆5機の空襲受けて損傷し最大発揮速力20ノットとなった13日、2隻(海風、潮)はクェゼリン環礁到着した1月18日、丁船団第一分団および護衛2隻(海風、潮)はトラック島帰着。またポナペ島方面輸送担当していた「涼風」もトラック泊地帰着した1月19日二水部隊能代早波若葉初霜)に護衛され横須賀回航中の空母2隻(瑞鳳雲鷹)を、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦ハダックハリバットタリビー襲撃しハダック雷撃で「雲鷹」が中破、「瑞鳳」は横須賀先行し雲鷹隊はサイパン避難した古賀峯一連合艦隊司令長官より救援命じられ駆逐艦3隻(海風涼風浦風)はただちにトラック出撃する。だが連合艦隊命令により2隻(浦風涼風)は反転トラック泊地もどった。「海風」には工作艦明石」から派遣され救難作業班と排水ポンプを移載しており、サイパン雲鷹隊と合流した1月21日、「海風」は雲鷹警戒任務駆逐艦早波」と交代し二水戦(能代早波)はサイパン出港して横須賀向かった。 その前日トラック泊地出発したばかりの駆逐艦皐月」と給糧艦伊良湖」を、アメリカ潜水艦シードラゴン襲撃被雷した「伊良湖」は航行不能となっていた。救難命じられ涼風23時伊良湖遭難現場着。さらに重巡洋艦鳥海」や第7駆逐隊(潮、曙)等も救援かけつけ、「伊良湖」は沈没免れてトラック泊地向かった1月25日伊良湖救援後、輸送船護衛任務についた涼風」はアメリカ潜水艦スキップジャック雷撃により、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯0900東経15727分 / 北緯9.000度 東経157.450度 / 9.000; 157.450地点轟沈した。乗組員大多数戦死した涼風喪失前日1月24日)、連合艦隊雲鷹護衛隊海風、潮、曙、皐月)の編成と、初春型駆逐艦4番艦「初霜」(第21駆逐隊)のトラック帰投発令。だが、久保田24司令海風乗組員被服荷物陸揚げしていることから本艦内地回航取りやめ、「海風」と「初霜」を入れ替えるよう要請護衛艦駆逐艦4隻(皐月、潮、曙、初霜)に変更された。1月27日雲鷹隊(雲鷹皐月、潮、曙、初霜)はサイパン出発重巡高雄」等の支援を受けつつ横須賀帰投した。1月28日、「海風」は3113船団護衛してサイパン出発トラックへ向かう。 2月1日1122分、「海風」はトラック泊地南水道でアメリカ潜水艦ガードフィッシュ雷撃された。魚雷1本が「海風」の右舷機械室艦底附近爆発し1150分に沈没したアメリカ軍による沈没地点北緯0710東経15143分 / 北緯7.167度 東経151.717度 / 7.167; 151.717。戦死者50名。同泊地停泊中の駆逐艦2隻(島風白露)は海風遭難報告受けて現場向かい対潜掃蕩実施した同日24僚艦の「満潮」もトラック泊地到着生還した久保田司令司令駆逐艦を「満潮」に変更した2月10日久保田大佐横須賀鎮守府附となり、第24駆逐隊司令職を離れる同日附で中尾少佐海風駆逐艦長職務解かれ佐世保鎮守府となった3月18日久保田大佐軽巡名取艦長転任となった名取沈没時に戦死)。3月31日海風白露型、帝国駆逐艦籍から除籍された。また本艦沈没により第24駆逐隊所属した白露型/海風型4隻(海風江風山風涼風)は全隻沈没、第24駆逐隊は第16駆逐隊と共に同日附で解隊された。

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昭和19年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 16:35 UTC 版)

初霜 (初春型駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説

1944年昭和19年1月より、初霜空母雲鷹千歳瑞鳳龍鳳」などの護衛従事した6月18-20日、マリアナ沖海戦補給部隊護衛艦として参加する6月20日補給部隊護衛艦卯月雪風夕凪初霜、響、)と油槽船速吸日栄丸、国洋丸、清洋丸)という編制行動中、アメリカ軍機動部隊艦載機空襲受けた油槽船2隻(清洋丸、玄洋丸)が被弾炎上卯月は玄洋丸を砲撃で、雪風は清洋丸を雷撃処分した日本本土帰投した初霜は、内海西部拠点として船団護衛任務実施した8月25日初霜駆逐艦長酒匂三少佐(峯風型駆逐艦2番澤風駆逐艦長)に交代する10月中旬第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将/第五艦隊司令長官重巡那智足柄》、軽巡阿武隈》、駆逐艦《潮、曙、不知火若葉初春初霜》)は、台湾沖航空戦大勝利にともなう残敵掃蕩命じられた。ところが大損害を被ったはずのアメリカ軍機動部隊健在であり、重巡那智足柄以下主隊と合流した21駆逐隊若葉初春初霜)は、奄美大島経由して台湾へ退避した10月22日、第21駆逐隊若葉初春初霜)は台湾からマニラへの基地航空部隊物件輸送任務に就き23日マニラ着。志摩艦隊本隊合流するためスルー海南下中の10月24日パナイ島西方で第21駆逐隊は米艦載機攻撃受けた直撃弾を受けた若葉沈没し、第21駆逐隊司令駆逐艦初春変更となった初霜アメリカ軍機8機の奇襲を受け、二番砲塔左舷小型爆弾命中して損傷した初霜戦死者5名、重傷者7名、軽傷14名と記録されている。石井司令初春初霜マニラ撤退決断。2隻と合流できなかった志摩艦隊那智足柄阿武隈不知火、曙、潮という戦力レイテ湾突入しレイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦および掃蕩戦により阿武隈不知火喪失している。第21駆逐隊25日朝にマニラ港補給負傷者の陸揚を実施本隊追って26日ブスアンガ島コロン泊地入港したマニラ湾カビテ軍港修理した後、初霜木村昌福少将旗艦)の指揮下で第二次多号作戦参加輸送船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)を海防艦沖縄占守海防艦11号13号)と駆逐艦6隻(沖波、曙、潮、初春初霜)が護衛していた。空襲により輸送船能登丸が沈没したが、輸送作戦成功した同時期、マニラ港停泊中の各艦は連日おこなわれるアメリカ軍機の空襲により、第五艦隊だけでも3隻(那智5日沈没》、初春13日沈没》、曙《13日沈没》)を喪失した11月13日深夜残存艦艇初霜朝霜、潮、竹)はマニラ出港する初霜には第五艦隊司令部便乗しており、ブルネイ着後の志摩中将足柄移乗し将旗掲げた11月15日附で第21駆逐隊白露型駆逐艦時雨編入された。11月20日第一水雷戦隊解隊され、第21駆逐隊初霜時雨)は第二水雷戦隊所属することになった当時の「初霜」は戦艦榛名シンガポール座礁最大速力18ノット)を護衛して台湾へ移動したカムラン湾戻って第二水雷戦隊主力合同12月18日初霜千振(海防艦)は米潜水艦雷撃大破した重巡妙高(重巡羽黒によって曳航中)のシンガポール回航護衛することになった12月20日礼号作戦発動される。ところが護衛していた空母雲龍撃沈された時雨佐世保帰投した為、礼号作戦参加予定駆逐艦は2隻(清霜朝霜)のみとなった南西方面艦隊妙高護衛任務から駆逐艦1隻を引き抜くよう命じ木村二水司令官選んだ分離後妙高羽黒初霜千振12月25日シンガポール到着、こうして羽黒初霜礼号作戦参加できなかった。

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