昭和19年の戦い
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「風雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説
ろ号作戦実施中の1943年(昭和18年)10月31日附で満潮型駆逐艦の朝雲が第10駆逐隊に加入、10駆は3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる。修理を終えた後の1944年(昭和19年)1月17日、風雲と秋雲は横須賀を出港し、翔鶴を瀬戸内海まで護衛した。2月6日、桜部隊(瑞鶴、翔鶴、筑摩、矢矧、秋雲、風雲、朝雲、初月、若月)として洲本沖を出撃し、13日昭南に到着した。リンガ泊地で訓練に従事するが、瑞鶴に修理が必要となったため、2月20日に第10駆逐隊は瑞鶴を護衛して内地にむかった。27日、呉に到着する。3月7日、第10駆逐隊は瑞鶴、重巡洋艦最上、第三戦隊(司令官鈴木義尾中将、海兵40期)の戦艦2隻(金剛、榛名)を護衛して瀬戸内海を出撃、リンガ泊地に向かい、3月15日到着した。3月20日附で第10駆逐隊司令天野重隆大佐は秋月型駆逐艦の第61駆逐隊司令へ転任し、後任の10駆司令は赤澤次壽雄大佐(当時、涼月駆逐艦長)となった。3月25日、赤澤大佐は司令駆逐艦を秋雲から風雲に変更する。リンガ泊地に到着後、第10駆逐隊は第十戦隊(旗艦矢矧)とともに航空戦隊との合同訓練に従事した。4月11日、秋雲がアメリカ潜水艦レッドフィンの雷撃で撃沈された。第10駆逐隊は風雲と朝雲の2隻となった。5月12日にリンガ泊地を出撃してタウイタウイに進出し、タンカー護衛と対潜掃討に従事した。 詳細は「ビアク島の戦い」および「渾作戦」を参照 この頃、ビアク島を巡って攻防が繰り広げられており、帝国海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開。5月30日付で第10駆逐隊(風雲、朝雲)は渾部隊(指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官:旗艦青葉)に編入される。間接護衛隊の戦艦扶桑と第10駆逐隊(風雲、朝雲)、警戒隊(指揮官橋本信太郎第五戦隊司令官、中将・海兵41期)の第五戦隊(妙高、羽黒)と第27駆逐隊(春雨、五月雨、白露、時雨)は、タウイタウイからダバオへ移動した。6月2日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、輸送隊(青葉、鬼怒、敷波、浦波)等と共にダバオを出撃する。B-24爆撃機に触接されたため、豊田副武連合艦隊司令長官は6月3日夜に作戦の中止を発令した。「敵機動部隊発見」は誤報と判明したため渾作戦は再開されたが、第五戦隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は原隊復帰、つづいてダバオ回航を命じられた。6月5日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)はダバオに到着した。このあと渾作戦は駆逐艦6隻のみで実施されたが空襲で春雨(第27駆逐隊司令戦死)を喪失し、さらにアメリカの巡洋艦部隊に迎撃されて撃退された(第二次渾作戦)。そこで、連合艦隊は第一戦隊司令官宇垣纏中将の大和型戦艦大和と武蔵および第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将指揮下の水雷戦隊なども投入して、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった。 6月7日夕刻、連合艦隊は電令作第124号をもって第五戦隊(妙高、羽黒)と第10駆逐隊(風雲、朝雲)を渾部隊に編入し、ハルマヘラ島バチャン泊地への進出を命じた。同日深夜、第10駆逐隊(風雲、朝雲)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してダバオを出撃した。この時、ダバオ湾(英語版)口ではアメリカ潜水艦ヘイクが哨戒を行っていた。翌6月8日未明、ヘイクのレーダーは湾の中央を高速で移動する4つの目標を探知。午前2時12分、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯06度03分 東経125度57分 / 北緯6.050度 東経125.950度 / 6.050; 125.950の地点で魚雷を6本発射した。うち2本が風雲の左舷中央部と左舷艦尾に命中、搭載の魚雷が誘爆し、4分で沈没した。日本側記録によれば、午前3時13分に最初の魚雷が命中して航行不能になり、午前3時35分に再度の雷撃をうけて沈没した。 ダバオ湾を警戒中の駆逐艦響と秋霜は、駆逐艦浜風を通じて救援要請を受けた。直ちに出動する。各艦は朝雲と共に救助活動に従事した。乗員のうち136名は秋霜に移乗してダバオへ向かったが、他の者は全員戦死した。風雲座乗中の第10駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐も戦死した(少将に進級)。 駆逐艦風雲は7月10日附で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍から除籍された。
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昭和19年の戦い
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「秋雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説
横須賀での二度にわたる整備ののち、第十戦隊(秋雲、風雲、若月)は「翔鶴」を護衛して瀬戸内海に向かった。訓練の後、2月6日に第十戦隊(矢矧、秋雲、風雲、若月、秋月)は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)、重巡洋艦筑摩を護衛して洲本沖を出撃し、リンガ泊地へ進出した。一旦「瑞鶴」とともに呉に戻った後、3月に入って大型艦4隻(空母《瑞鶴》、戦艦《金剛、榛名》、重巡《最上》)を護衛して再度リンガ泊地へ進出し、各種訓練に参加した。3月20日附で第十駆逐隊司令天野重隆大佐は第61駆逐隊(涼月、初月、若月、秋月)司令へ転任し、後任の10駆司令は秋月型駆逐艦3番艦涼月駆逐艦長赤澤次壽雄大佐となった。 4月1日、第10駆逐隊(秋雲、風雲)、重巡洋艦2隻(利根、筑摩)とともに航空基地物件輸送のため昭南(シンガポール)を出撃してダバオに向かうが、途中で輸送任務が中止となったため昭南に引き返した。3隻(利根、筑摩、風雲)とはここで別れ、別途物件輸送のため4月5日に昭南を出撃して再度ダバオに向かう。4月9日にダバオに到着して燃料や航空魚雷などを陸揚げした後、翌4月10日にダバオを出撃してリンガ泊地に向かった。しかしその道中でバリクパパンからダバオに単独向かう途中の特設運送船聖川丸(川崎汽船、6,862トン)と会合し、ダバオからサンボアンガまで護衛するよう命じられる。スールー海から引き返し、訓練と警戒を行いつつバシラン海峡を東航してダバオに向かった。一方その頃、アメリカ軍の潜水艦レッドフィン(USS Redfin, SS-272) がバリサン海峡東方で哨戒を行っていた。4月11日夕刻、レッドフィンは約10,000ヤードの距離でマストを発見、引き続き観測すると目標(秋雲)は吹雪型駆逐艦と目されジグザグ航行を行っており、18ノットの速力で航行していると推定された。レッドフィンは艦尾発射管で攻撃を行う事とし、18時15分、艦尾発射管から4本の魚雷を発射した。間もなくレッドフィンが発射した最初の魚雷は「秋雲」の一番砲塔付近に命中し、続いて二番目の魚雷はメインマスト付近に命中した。三番目の魚雷も命中したが、四番目の魚雷は外れたと考えられた。秋雲側では4本が命中したと判断された。魚雷の命中を受けて船体は45度に傾き、艦尾は海中に没していた。秋雲駆逐艦長入戸野篶生少佐は「総員退艦」を令した後、艦橋予備室に入って戸を閉め艦と運命をともにした。18時17分、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯06度45分 東経122度41分 / 北緯6.750度 東経122.683度 / 6.750; 122.683のサンボアンガ灯台の112度26.7海里地点において沈没した。この光景は付近を航行中の漁船が目撃しており、漁船からの通報を受けた「第35号駆潜艇」が救助にあたって生存者救助を行ったが、乗員のうち入戸野艦長以下133名が戦死し、准士官以上8名 と下士官兵108名の計116名が生還した。第十駆逐隊は2隻(風雲、朝雲)に減少した。 同年6月10日、駆逐艦「秋雲」は不知火型駆逐艦、帝国駆逐艦籍、第10駆逐隊 のそれぞれから除籍された。なお「秋雲」が除籍される2日前に「風雲」も米潜水艦ヘイク(USS Hake, SS/AGSS-256)の雷撃で撃沈されている。第10駆逐隊は「朝雲」1隻を残すのみとなった。7月10日、第10駆逐隊は解隊され同艦は第4駆逐隊に編入、同隊は駆逐艦4隻(不知火型《野分》、満潮型《満潮、山雲、朝雲》)となった。10月25日、レイテ沖海戦に参加した第4駆逐隊は全滅、第10駆逐隊に所属した駆逐艦(秋雲、夕雲、巻雲、風雲、朝雲)は全隻沈没した。
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昭和19年の戦い
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「熊野 (重巡洋艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説
1944年(昭和19年)1月1日、重巡利根、筑摩が第七戦隊に編入した。1月はトラック泊地に滞在。2月1日、トラックを出発し8日にパラオへ移動。17日パラオ発、21日にリンガ泊地着。3月1日、第一機動艦隊の第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入される。23日、筑摩に将旗が移り、熊野は第二小隊5番艦となった。3月25日、第七戦隊司令官は白石萬隆少将に交代。4月6日、熊野は第七戦隊旗艦に復帰した。5月18日以降、熊野はタウイタウイ泊地に停泊した。 6月13日、熊野は同泊地を出撃して6月19日のマリアナ沖海戦に参加する。熊野の水上偵察機がアメリカ軍機動部隊を発見し、その位置を報告した。第七戦隊(最上のみ機動部隊乙部隊所属)は前衛艦隊(司令長官栗田健男中将)に所属し、さらに第十一群(空母《瑞鳳》、戦艦《大和》、重巡《熊野、鈴谷、利根》、駆逐艦《早波、浜波、玉波》)を編成して戦闘に臨んだ。6月19日、小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射。6月25日、日本本土に戻った。対空兵器などを増強。7月8日、陸軍部隊のシンガポール輸送のため第一戦隊(大和、武蔵)等と共に呉を出撃。7月16日、シンガポールに到着し、以後はリンガ泊地で訓練に従事した。9月27日、通信機を特積する。
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「鈴谷 (重巡洋艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説
1944年(昭和19年)1月1日、第七戦隊(熊野、鈴谷、最上)に重巡利根、筑摩が編入した。1月はトラック泊地に滞在。2月上旬、トラック泊地よりパラオへ移動。17日パラオ発、21日にリンガ泊地着。3月1日、第一機動艦隊の第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入される。23日、筑摩に将旗が移り、鈴谷は第二小隊3番艦となった。3月25日、第七戦隊司令官は白石萬隆少将に交代。5月18日以降、第七戦隊はタウイタウイ泊地に停泊して訓練に従事した。 6月13日、鈴谷は同泊地を出撃し、6月19日のマリアナ沖海戦に参加する。最上を除く第七戦隊は前衛艦隊(司令長官栗田健男中将、第三航空戦隊・第二艦隊主力)に所属し、さらに第十一群(瑞鳳、大和、熊野、鈴谷、利根、早波、浜波、玉波)を編成して戦闘に臨んだ。6月19日、小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射。海戦に敗北後、沖縄中城湾で補給したのち、鈴谷と熊野、利根、筑摩、浜風、早霜、秋霜、時雨、五月雨は本土へ回航。6月25日、日本本土に戻る。各艦は対空兵器などを増強した。7月8日、鈴谷は陸軍部隊のシンガポール輸送のため第一戦隊(大和、武蔵)等と共に呉を出撃。16日、シンガポールに到着し、以後はリンガ泊地で訓練に従事した。
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昭和19年の戦い
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「海風 (白露型駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説
1944年(昭和19年)1月12日、「海風」はウォッジェ環礁で陸兵を揚陸していた。同日、マロエラップ環礁のタロア島で陸兵を揚陸していた「潮」がアメリカ軍のB-25中爆5機の空襲を受けて損傷し、最大発揮速力20ノットとなった。13日、2隻(海風、潮)はクェゼリン環礁に到着した。1月18日、丁船団第一分団および護衛2隻(海風、潮)はトラック島に帰着。またポナペ島方面の輸送を担当していた「涼風」もトラック泊地に帰着した。 1月19日、二水戦部隊(能代、早波、若葉、初霜)に護衛されて横須賀回航中の空母2隻(瑞鳳、雲鷹)を、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦ハダック、ハリバット、タリビーが襲撃し、ハダックの雷撃で「雲鷹」が中破、「瑞鳳」は横須賀へ先行し雲鷹隊はサイパンに避難した。古賀峯一連合艦隊司令長官より救援を命じられた駆逐艦3隻(海風、涼風、浦風)はただちにトラックを出撃する。だが連合艦隊の命令により2隻(浦風、涼風)は反転、トラック泊地にもどった。「海風」には工作艦「明石」から派遣された救難作業班と排水ポンプを移載しており、サイパンで雲鷹隊と合流した。1月21日、「海風」は雲鷹警戒任務を駆逐艦「早波」と交代し、二水戦(能代、早波)はサイパンを出港して横須賀に向かった。 その前日、トラック泊地を出発したばかりの駆逐艦「皐月」と給糧艦「伊良湖」を、アメリカ潜水艦シードラゴンが襲撃。被雷した「伊良湖」は航行不能となっていた。救難を命じられた涼風は23時に伊良湖遭難現場着。さらに重巡洋艦「鳥海」や第7駆逐隊(潮、曙)等も救援にかけつけ、「伊良湖」は沈没を免れてトラック泊地へ向かった。1月25日、伊良湖救援後、輸送船護衛任務についた「涼風」はアメリカ潜水艦スキップジャックの雷撃により、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯09度00分 東経157度27分 / 北緯9.000度 東経157.450度 / 9.000; 157.450地点で轟沈した。乗組員の大多数が戦死した。 涼風喪失の前日(1月24日)、連合艦隊は雲鷹護衛隊(海風、潮、曙、皐月)の編成と、初春型駆逐艦4番艦「初霜」(第21駆逐隊)のトラック帰投を発令。だが、久保田24駆司令は海風乗組員の被服や荷物を陸揚げしていることから本艦の内地回航を取りやめ、「海風」と「初霜」を入れ替えるよう要請。護衛艦は駆逐艦4隻(皐月、潮、曙、初霜)に変更された。1月27日、雲鷹隊(雲鷹、皐月、潮、曙、初霜)はサイパンを出発、重巡「高雄」等の支援を受けつつ横須賀に帰投した。1月28日、「海風」は3113船団を護衛してサイパンを出発、トラックへ向かう。 2月1日11時22分、「海風」はトラック泊地南水道でアメリカ潜水艦ガードフィッシュに雷撃された。魚雷1本が「海風」の右舷機械室艦底附近で爆発し、11時50分に沈没した。アメリカ軍による沈没地点北緯07度10分 東経151度43分 / 北緯7.167度 東経151.717度 / 7.167; 151.717。戦死者約50名。同泊地停泊中の駆逐艦2隻(島風、白露)は海風遭難の報告を受けて現場に向かい、対潜掃蕩を実施した。同日、24駆僚艦の「満潮」もトラック泊地に到着、生還した久保田司令は司令駆逐艦を「満潮」に変更した。2月10日、久保田大佐は横須賀鎮守府附となり、第24駆逐隊司令職を離れる。同日附で中尾少佐も海風駆逐艦長の職務を解かれ、佐世保鎮守府附となった。 3月18日、久保田大佐は軽巡名取艦長へ転任となった(名取沈没時に戦死)。3月31日、海風は白露型、帝国駆逐艦籍から除籍された。また本艦の沈没により第24駆逐隊に所属した白露型/海風型4隻(海風、江風、山風、涼風)は全隻沈没、第24駆逐隊は第16駆逐隊と共に同日附で解隊された。
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昭和19年の戦い
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「初霜 (初春型駆逐艦)」の記事における「昭和19年の戦い」の解説
1944年(昭和19年)1月より、初霜は空母「雲鷹、千歳、瑞鳳、龍鳳」などの護衛に従事した。6月18-20日、マリアナ沖海戦に補給部隊の護衛艦として参加する。6月20日、補給部隊は護衛艦(卯月、雪風、夕凪、初霜、響、栂)と油槽船(速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸)という編制で行動中、アメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受けた。油槽船2隻(清洋丸、玄洋丸)が被弾炎上。卯月は玄洋丸を砲撃で、雪風は清洋丸を雷撃で処分した。 日本本土に帰投した初霜は、内海西部を拠点として船団護衛の任務を実施した。8月25日、初霜駆逐艦長は酒匂雅三少佐(峯風型駆逐艦2番艦澤風駆逐艦長)に交代する。10月中旬、第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将/第五艦隊司令長官:重巡《那智、足柄》、軽巡《阿武隈》、駆逐艦《潮、曙、霞、不知火、若葉、初春、初霜》)は、台湾沖航空戦の大勝利にともなう残敵掃蕩を命じられた。ところが大損害を被ったはずのアメリカ軍機動部隊は健在であり、重巡那智、足柄以下主隊と合流した第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)は、奄美大島を経由して台湾へ退避した。 10月22日、第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)は台湾からマニラへの基地航空部隊物件輸送任務に就き、23日マニラ着。志摩艦隊本隊へ合流するためスルー海を南下中の10月24日、パナイ島西方で第21駆逐隊は米艦載機の攻撃を受けた。直撃弾を受けた若葉が沈没し、第21駆逐隊司令駆逐艦は初春に変更となった。初霜もアメリカ軍機8機の奇襲を受け、二番砲塔左舷に小型爆弾が命中して損傷した。初霜戦死者5名、重傷者7名、軽傷者14名と記録されている。石井汞司令は初春、初霜のマニラ撤退を決断。2隻と合流できなかった志摩艦隊は那智、足柄、阿武隈、霞、不知火、曙、潮という戦力でレイテ湾へ突入し、レイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦および掃蕩戦により阿武隈、不知火を喪失している。第21駆逐隊は25日朝にマニラ港で補給と負傷者の陸揚を実施。本隊を追って26日にブスアンガ島コロン泊地に入港した。 マニラ湾のカビテ軍港で修理した後、初霜は木村昌福少将(旗艦霞)の指揮下で第二次多号作戦に参加。輸送船4隻(能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸)を海防艦(沖縄、占守、海防艦11号、13号)と駆逐艦6隻(霞、沖波、曙、潮、初春、初霜)が護衛していた。空襲により輸送船能登丸が沈没したが、輸送作戦は成功した。同時期、マニラ港に停泊中の各艦は連日おこなわれるアメリカ軍機の空襲により、第五艦隊だけでも3隻(那智《5日沈没》、初春《13日沈没》、曙《13日沈没》)を喪失した。11月13日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)はマニラを出港する。初霜には第五艦隊司令部が便乗しており、ブルネイ着後の志摩中将は足柄に移乗して将旗を掲げた。 11月15日附で第21駆逐隊に白露型駆逐艦時雨が編入された。11月20日、第一水雷戦隊は解隊され、第21駆逐隊(初霜、時雨)は第二水雷戦隊に所属することになった。当時の「霞、初霜」は戦艦榛名(シンガポールで座礁、最大速力18ノット)を護衛して台湾へ移動した。カムラン湾に戻って第二水雷戦隊主力と合同。12月18日、霞、初霜、千振(海防艦)は米潜水艦の雷撃で大破した重巡妙高(重巡羽黒によって曳航中)のシンガポール回航を護衛することになった。12月20日、礼号作戦が発動される。ところが護衛していた空母雲龍を撃沈された時雨は佐世保へ帰投した為、礼号作戦参加予定の駆逐艦は2隻(清霜、朝霜)のみとなった。南西方面艦隊は妙高護衛任務から駆逐艦1隻を引き抜くよう命じ、木村二水戦司令官は霞を選んだ。霞分離後の妙高、羽黒、初霜、千振は12月25日にシンガポールへ到着、こうして羽黒、初霜は礼号作戦に参加できなかった。
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