昭和19年前半
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「時雨 (白露型駆逐艦)」の記事における「昭和19年前半」の解説
1944年(昭和19年)1月3日、時雨と春雨は給糧艦伊良湖を護衛して横須賀からトラック泊地に向かった。19日、油送任務のため春雨と共にタンカー富士山丸と神国丸を護衛してボルネオ島パリクパパンに向かい、途中で潜水艦を撃沈確実と報告した。帰路は天城丸を加えたタンカー3隻を護衛し、2月13日に米潜水艦パーミットに爆雷攻撃し撤収させた。14日にトラック泊地に戻った。 詳細は「トラック島空襲」を参照 2月17日、トラック泊地は空母9隻などを擁する米第50任務部隊の大規模な襲撃を受けた。時雨と春雨は警報を受けて早朝に緊急出港し外洋に出たが米軍機約45機が襲来、魚雷発射管や主砲、機関を損傷し66名が死傷した。24日にパラオに避退し、妙高に横付けして応急修理を受けた。3月中旬に佐世保に帰投し4月12日まで修理した。 詳細は「渾作戦」を参照 5月に佐伯港から南方に出発、ビアク島輸送作戦(渾作戦)に参加した。時雨はソロンで陸戦隊207人を乗せ敷波、浦波と共に輸送隊となり、護衛する白露、春雨、五月雨と共に6月8日未明に出発。昼にB-25爆撃機とP-38戦闘機の攻撃を受け春雨が沈没して白濱司令が戦死、時雨は1名が負傷しB-25撃墜4機と報告した。 同日夜に単縦陣最後尾で航行中に米重巡1、軽巡2、駆逐艦14に遭遇。時雨は砲撃で応戦、魚雷8本を発射、砲撃を巡洋艦1隻に命中させたと報告したが、米艦隊の損害はなかった。一番砲塔、2番機銃座、船体に被弾し戦死者7名、重軽傷者15を出した。船体を貫通した6インチ砲弾は不発だった。10日にサワラナ島に到着し陸兵を敷波に移し、重巡青葉、軽巡鬼怒と共に11日にハルマヘラ島バチアン泊地へ移動、応急修理した後に白露と共に12日にダバオに入港した。
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