昭和19年上旬の行動
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「早波 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年上旬の行動」の解説
1944年(昭和19年)1月2日、早波以下日栄丸船団は第102号哨戒艇(元アメリカ駆逐艦スチュワート)と合流した。第102号哨戒艇は日栄丸船団(日栄丸、旭東丸)を護衛してバリクパパンへ向かい、早波は富士山丸船団(富士山丸、神国丸、あけぼの丸)を護衛してトラックに向かう。1月3日、富士山丸船団から分離した早波と「あけぼの丸」はパラオに回航(1月4日到着)。同時期、バリクパパンからパラオを経てトラックへと向かう国洋丸(国洋汽船、10,026トン)、日本丸(山下汽船、9,971トン)および健洋丸(国洋汽船、10,024トン)からなる輸送船団を第102号哨戒艇と共に護衛する任務に就くため、第32駆逐隊司令指揮下の2隻(早波、島風)は1月11日にパラオを出撃する。船団に第7駆逐隊(曙、漣)が加わる予定であった。1月12日、早波と島風は第102号哨戒艇と合同、船団護衛任務をひきつぐ。この船団をガードフィッシュ(USS Guardfish, SS-217)、アルバコア(USS Albacore, SS-218)、スキャンプ (USS Scamp, SS-277)で構成されたウルフパックが狙っていた。 1月14日正午頃、アルバコアの雷撃によって漣が沈没した。続いて早波と島風が護衛していた日本丸と健洋丸も、日本丸はスキャンプの雷撃、健洋丸はガードフィッシュの雷撃により、それぞれ沈没した。早波と島風は敵潜水艦の制圧に向かったが、結果的に逃走を許している。その後、島風はパラオへ帰投した。早波は生き残った国洋丸と駆逐艦曙(第7駆逐隊)、同じく救援に来た駆逐艦春雨(第27駆逐隊)と共にトラックへ向かった(1月17日到着)。だが本艦は日本軍の艦上爆撃機に誤爆されて小型爆弾が命中、軽微の被害を受けた。 1月18日、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将指揮下の横須賀回航部隊(軽巡〈能代〉、空母〈瑞鳳、雲鷹〉、駆逐艦〈早波、若葉、初霜〉)はトラック泊地を出発した(軽巡五十鈴と駆逐艦初春は先行して出発)。1月19日、同航していた空母雲鷹がアメリカ潜水艦ハダックの雷撃で損傷している。早川少将は瑞鳳と若葉を横須賀に先行させ、能代隊(能代、雲鷹、早波、初霜)は1月20日サイパンに到着した。早波と初霜は対潜掃蕩と警戒に従事した。翌日、能代と早波は雲鷹隊(雲鷹、初霜、海風《救難のためトラック泊地より到着》)を残してサイパンを出発する。1月24日、能代と早波は横須賀に帰投した。修理と整備を行う。 2月5日、早波の修理は完了した。2月14日、早川少将は第二水雷戦隊旗艦を能代(横須賀で修理中)から高雄型重巡洋艦高雄(第四戦隊)に変更した。2月15日、高雄と早波は横須賀を出撃、20日パラオに到着した。パラオ到着後、第二水雷戦隊旗艦は高雄型重巡鳥海となった。2月23日、トラック島空襲(2月17日-18日)によりトラック泊地から脱出した水上機母艦秋津洲救援のため、早波はパラオを出撃した。24日、秋津洲と合同し、翌日2隻(秋津洲、早波)はパラオに到着した。その後、早波はタンカー国洋丸の護衛に従事した。 4月中旬、早波はリンガ泊地に進出した。能代は既にリンガ泊地に進出していた。4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐から折田常雄大佐に交代した。中原大佐は5月8日附で軽巡長良艦長となるが、8月7日の長良沈没時に戦死した(海軍中将へ特進)。
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