昭和19年初頭の行動
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「藤波 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年初頭の行動」の解説
1944年(昭和19年)1月2日、戊号二号輸送部隊はトラック泊地を出撃した。部隊編成は重巡3隻(妙高、羽黒、利根)と駆逐艦2隻(白露、藤波)であった。4日カビエンに到着。同部隊は第22駆逐隊(文月、皐月)の支援を受けていた。アメリカ軍機動部隊艦載機約80機は利根以下戊二号輸送部隊を発見できず、第22駆逐隊(皐月、文月)を襲撃する。両艦とも損傷した。1月5日、戊二号輸送部隊は被害なくトラック泊地に戻った。 1月10日、藤波と満潮(第24駆逐隊)は大和型戦艦大和を護衛してトラックを出港した。1月15日、呉に帰投した。藤波は呉で整備に従事する。続いて、横須賀行きの第130乙船団を護衛した。 2月4日から、藤波は第二海上護衛隊の指揮下に入る。日本陸軍第52師団(通称号「柏」、師団長麦倉俊三郎陸軍中将)の主力第二梯団(歩兵第150聯隊〈第3大隊欠〉、歩兵第69連隊〈第2大隊〉、師団直轄部隊の主力、戦車隊など)のトラック泊地進出を護衛することになった。歩兵第150聯隊の聯隊長林田敬蔵大佐と聯隊軍旗は、藤波に乗艦した。第二梯団は輸送船2隻(暁天丸、辰羽丸)に分乗、さらに輸送船(隆興丸、瑞海丸、新京丸)と船団を組む。護衛部隊は駆逐艦藤波と澤風、海防艦天草、第31号駆潜艇であった。 2月4日、第3206船団として横浜港を出発するが、悪天候のため館山に避泊、あらためて2月6日に館山を出港した。トラックを目前にした2月16日午前2時30分頃、3206船団はアメリカ潜水艦タングの攻撃を受けて暁天丸(拿捕船、6,854トン)が沈没した。藤波は人員救助と対潜掃討をおこない、人員1800名を救助した。船団に合流してトラック西方沖に到達した所で2月17日のトラック島空襲に遭遇する。第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)から飛来してきた艦載機群は、船団を攻撃。辰羽丸(辰馬汽船、5,784トン)、瑞海丸(東亜海運、2,812トン)を失った。第二梯団の戦死者は約700名で、戦車・工作車両など全装備を喪失。人員の一部は新京丸に救助されてサイパンへ避退した(3月2日、新京丸はトラック再進出中に潜水艦雷撃で沈没)。2月18日、藤波はトラックに到着した。第二梯団の生存者1800名は丸腰で同地に上陸した。2月19日から20日、藤波は峯風型駆逐艦秋風と共に、パラオに下がる工作艦明石と標的艦波勝を護衛してトラックを出港した。途中合流の白露型駆逐艦春雨(第27駆逐隊)を加え、2月24日パラオに到着した。しばらくパラオで待機する。 しかし、パラオにもアメリカ機動部隊の空襲の危機(パラオ大空襲)が迫ってきた。3月29日、第二艦隊(司令長官栗田健男中将・海兵38期)麾下の第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海)や第二水雷戦隊(春雨、白露、満潮、藤波)、戦艦武蔵と第17駆逐隊(浜風、谷風、浦風、磯風)はパラオを出港した。しかし、出港直後に第17駆逐隊が護衛していた武蔵が、アメリカ潜水艦タニーの雷撃で損傷した。駆逐艦3隻(藤波、満潮、白露)は第17駆逐隊と武蔵護衛任務を交代する。4隻(武蔵、白露、藤波、満潮)は艦隊から分離して内地へ向かう。古賀長官が殉職した海軍乙事件後の4月3日、武蔵以下4隻は呉へ帰投した。 4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐から折田常雄大佐に交代した。 詳細は「竹一船団」を参照 同時期、大本営は日本陸軍(第32師団と第35師団)をフィリピンとニューギニア島西部のマノクワリに輸送し、豪北方面を増強しようとした。作戦名を竹輸送、船団名を竹船団と呼称する。上海からマニラまでは海上護衛総司令部部隊の護衛担任、マニラからニューギニア方面は連合艦隊の護衛担任であった。 4月14日、二水戦の駆逐艦2隻(藤波、白露)は第一海上護衛隊各艦(白鷹、倉橋等)と共に「竹・モタ07船団」を護衛して門司を出撃、船団訓練のため鎮海に滞在したあと、上海に移動。竹一船団の護衛に就く。4月21日、第六護衛船団司令官梶岡定道少将(旗艦、白鷹)指揮下の竹船団は護衛艦(敷設艦〈白鷹〉、駆逐艦〈朝風、白露、藤波〉、海防艦3隻、掃海艇、砲艦、駆潜艇〔途中交代艦あり〕)、輸送船計16隻(戦史叢書46巻による)という編成で上海沖合を出撃した。一部艦艇は高雄(台湾)に寄港後、マニラに向けて航海を続ける。4月26日未明、ルソン島北西部で米潜水艦ジャックが竹船団を襲撃、第一吉田丸(山下汽船、5,425トン)が沈没する。4月27-28日、船団はマニラに到着した。 ここで護衛分担がかわり(上述)、護衛艦艇は敷設艦2隻(白鷹〔船団旗艦〕、蒼鷹)、駆逐艦3隻(五月雨〔5月4日合流〕、白露、藤波)、駆潜艇、哨戒艇2隻(102号、104号)となる。5月1日、竹船団はマニラを出発。5月6日、セレベス海で米潜水艦ガーナードの襲撃により亞丁丸(大洋興業、5,823トン)、但馬丸(日本郵船、6,995トン)、天津山丸(三井船舶、6,886トン)が沈没した。輸送船3隻を喪失した竹船団は西部ニューギニアへの輸送を諦めてスラウェシ島北端のバンカ泊地に避泊し、5月9日にハルマヘラ島のワシレに陸軍部隊を揚陸した。竹輸送の失敗は大本営に衝撃を与え、ニューギニア方面作戦に重大な影響を与えた。5月11日、3隻(藤波、白露、五月雨)は船団護衛任務を解かれ、5月13日にはバリクパパンに移動する。それぞれ別行動となり、藤波は5月18日タウイタウイ到着、第二艦隊に合流する。
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