昭和19年初頭の行動とは? わかりやすく解説

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昭和19年初頭の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:11 UTC 版)

藤波 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年初頭の行動」の解説

1944年昭和19年1月2日、戊号二号輸送部隊トラック泊地出撃した。部隊編成重巡3隻(妙高羽黒利根)と駆逐艦2隻(白露藤波であった4日カビエン到着。同部隊は第22駆逐隊文月皐月)の支援受けていた。アメリカ軍機動部隊艦載機80機は利根以下戊二号輸送部隊発見できず、第22駆逐隊皐月文月)を襲撃する。両艦とも損傷した1月5日、戊二号輸送部隊被害なくトラック泊地戻った1月10日藤波満潮(第24駆逐隊)は大和型戦艦大和護衛してトラック出港した1月15日、呉に帰投した。藤波は呉で整備従事する続いて横須賀行きの第130船団護衛した2月4日から、藤波第二海上護衛隊指揮下に入る。日本陸軍52師団通称号」、師団長麦倉俊三郎陸軍中将)の主力第二梯団歩兵150聯隊第3大隊欠〉、歩兵第69連隊第2大隊〉、師団直轄部隊主力戦車隊など)のトラック泊地進出護衛することになった歩兵150聯隊聯隊長林田大佐聯隊軍旗は、藤波乗艦した。第二梯団輸送船2隻(暁天丸、辰羽丸)に分乗、さらに輸送船隆興丸、瑞海丸、新京丸)と船団を組む。護衛部隊は駆逐艦藤波澤風海防艦天草、第31駆潜艇であった2月4日、第3206船団として横浜港出発するが、悪天候のため館山に避泊、あらため2月6日館山出港したトラック目前にした2月16日午前2時30分頃、3206船団アメリカ潜水艦タング攻撃受けて暁天丸(拿捕船、6,854トン)が沈没した藤波人員救助対潜掃討おこない人員1800名を救助した船団合流してトラック西方沖に到達した所で2月17日トラック島空襲遭遇する第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)から飛来してきた艦載機群は、船団攻撃。辰羽丸(辰馬汽船、5,784トン)、瑞海丸(東亜海運、2,812トン)を失った第二梯団戦死者は約700名で、戦車工作車両など全装備喪失人員一部新京丸に救助されサイパン避退した(3月2日新京丸はトラック再進出中に潜水艦雷撃沈没)。2月18日藤波トラック到着した第二梯団生存者1800名は丸腰同地上陸した2月19日から20日藤波峯風型駆逐艦秋風と共にパラオに下がる工作艦明石標的艦波勝護衛してトラック出港した途中合流白露型駆逐艦春雨第27駆逐隊)を加え2月24日パラオ到着した。しばらくパラオ待機する。 しかし、パラオにもアメリカ機動部隊の空襲危機パラオ大空襲)が迫ってきた。3月29日第二艦隊司令長官栗田健男中将海兵38期)麾下第四戦隊愛宕高雄鳥海)や第二水雷戦隊春雨白露満潮藤波)、戦艦武蔵と第17駆逐隊浜風谷風浦風磯風)はパラオ出港した。しかし、出港直後に第17駆逐隊護衛していた武蔵が、アメリカ潜水艦タニー雷撃損傷した駆逐艦3隻(藤波満潮白露)は第17駆逐隊武蔵護衛任務交代する。4隻(武蔵白露藤波満潮)は艦隊から分離して内地へ向かう。古賀長官殉職した海軍乙事件後の4月3日武蔵以下4隻は呉へ帰投した。 4月15日第32駆逐隊司令中原義一郎大佐から折田雄大佐に交代した詳細は「竹一船団」を参照 同時期、大本営日本陸軍(第32師団第35師団)をフィリピンニューギニア島西部マノクワリ輸送し、豪北方面増強しようとした作戦名を竹輸送船団名を竹船団呼称する。上海からマニラまでは海上護衛総司令部部隊護衛担任マニラからニューギニア方面連合艦隊護衛担任であった4月14日二水戦の駆逐艦2隻(藤波白露)は第一海上護衛隊各艦(白鷹倉橋等)と共に「竹・モタ07船団」を護衛して門司出撃船団訓練のため鎮海滞在したあと、上海移動竹一船団護衛に就く。4月21日第六護衛船団司令官梶岡定道少将旗艦白鷹指揮下の竹船団護衛艦敷設艦白鷹〉、駆逐艦朝風白露藤波〉、海防艦3隻、掃海艇砲艦駆潜艇途中交代艦あり〕)、輸送船16隻(戦史叢書46巻による)という編成上海沖合出撃した。一部艦艇高雄台湾)に寄港後、マニラ向けて航海続ける。4月26日未明ルソン島北西部で米潜水艦ジャック竹船団襲撃第一吉田丸山下汽船、5,425トン)が沈没する4月27-28日、船団マニラ到着した。 ここで護衛分担がかわり(上述)、護衛艦艇は敷設艦2隻(白鷹船団旗艦〕、蒼鷹)、駆逐艦3隻(五月雨5月4日合流〕、白露藤波)、駆潜艇哨戒艇2隻(102号、104号)となる。5月1日竹船団マニラ出発5月6日セレベス海で米潜水艦ガーナードの襲撃により亞丁丸(大洋興業、5,823トン)、但馬丸(日本郵船、6,995トン)、天津山丸(三井船舶、6,886トン)が沈没した輸送船3隻を喪失した竹船団西部ニューギニアへの輸送諦めてスラウェシ島北端バンカ泊地に避泊し5月9日ハルマヘラ島のワシレに陸軍部隊揚陸した。竹輸送失敗大本営衝撃与えニューギニア方面作戦重大な影響与えた5月11日、3隻(藤波白露五月雨)は船団護衛任務解かれ5月13日にはバリクパパン移動するそれぞれ別行動となり、藤波5月18日タウイタウイ到着第二艦隊合流する

※この「昭和19年初頭の行動」の解説は、「藤波 (駆逐艦)」の解説の一部です。
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