隼鷹護衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 09:45 UTC 版)
レイテ沖海戦で第二艦隊は、戦果のほどはさておいて多数の弾薬を消費した。レイテ決戦の夢を捨てきれない連合艦隊では、航空隊を陸揚げして「失業」状態の空母「隼鷹」を活用して、弾薬や軍需品の緊急輸送を行う事となった。空母の格納庫と高速力は、輸送艦としても適していた。「隼鷹」は10月27日から11月18日までの第一回マニラ緊急輸送を終えていた。11月23日に瀬戸内海を出撃して第二回マニラ向け緊急輸送を行う事となり、この第二回輸送に「槇」は加わる。「槇」は第41駆逐隊(冬月、涼月)とともに「隼鷹」を護衛してフィリピンに向かう。11月30日、隼鷹隊はマニラ到着した。同地で軍需品を陸揚げしたあと、12月1日に出発する。12月3日、澎湖列島の馬公に到着した。馬公にて、隼鷹隊は日本に戻る途中の戦艦「榛名」と合流する。榛名護衛任務を終えた「霞」と「初霜」はシンガポールに戻った。 12月6日、5隻(榛名、隼鷹、冬月、涼月、槇)は馬公を出港して日本本土に向かう。ひきつづき悪天候下の12月9日未明、佐世保入港を目前にして野母崎沖を航行する日本艦隊は、アメリカ潜水艦のウルフパックに発見される。当時「榛名」より『槇は隼鷹の後につけ』の命令があり、本艦は護衛対象2隻(榛名、隼鷹)右側を反航して南下、「隼鷹」の後方につく直前に雷撃を受けた。午前1時30分、「隼鷹」に米潜水艦レッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の発射した魚雷が2本命中する。「隼鷹」は浸水が拡大して傾斜し、便乗中の戦艦武蔵生存者を慌てさせた。だが片舷機械で航行可能であり、他艦と共に佐世保に帰投することが出来た。続いて潜水艦シーデビル (USS Seadevil, SS-400) と潜水艦プライス (USS Plaice, SS-390) が攻撃を行い、シーデビルは0時28分に魚雷を4本発射して、それは戦艦か空母に命中したと判断された。プライスは1時28分と31分に魚雷3本と4本をそれぞれ発射して、3本のうちの2本と4本のうちの2本の計4本が照月型駆逐艦に命中して撃破したと判断された。いずれかの攻撃にせよ「槇」前部に魚雷1本が命中して艦首を喪失した。戦死者4名。午前10時、損傷した「槇」は長崎港に入港した。調査の後、佐世保に帰投した。 渋谷(当時、隼鷹艦長)の証言によれば「隼鷹の護衛は槇1隻だけで、槇艦長が「オレが引き受けてやる」と身を挺して魚雷を受けた」という。石塚(当時、少佐/槇駆逐艦長、海兵63期)の証言によると、回避運動を取るとその魚雷が「隼鷹」に向かってしまうため、回避運動をとらずにわざと艦首すれすれに魚雷を当てたともいう。石塚は「航海長も『艦長、直進です』と直進を進言してくれた。航海長も私と同じ気持ち(護衛に任ずる者は捨て身の護衛をやる覚悟が大切)だったと思う」と回想している。後藤英一郎(槇航海長)の証言によると、左前方から魚雷が接近したため右旋回をやめて直進したという。「榛名」は『五島沖にて敵潜水艦の攻撃を受け、槇、轟沈』と発信した。
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