教育界・司法界での活躍
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加納は欧米への留学を強く希望しており、大学南校(東京大学の前身、後の開成学校)に開校と同時に入学してフランス語など西洋の社会・人文諸学を学んだが、周囲の反対により断念した。 明治6年(1873年)、辻新次の勧めにより文部省督学局に出仕して、従来の士族中心の教育から脱却した近代教育を指導。明治9年(1876年)に、兄の立花種恭や立花鑑寛(元柳河藩主)とともに学校建設の建議と英国貴族の子弟教育を範とする「家族学校設立大意」を提出した(校名は学習院となる)。 文部省退任後、岩手県令の島惟精に願い出て岩手県師範学校初代校長(岩手県学区取締総監督兼務)に就任。明治12年(1879年)に全国一の規模を持つ新潟学校校長を務める。同校は生徒が学校当局に抵抗し久しく校長が置かれない問題校であったが、加納は「もし君たちが非理の挙を敢て行い、不法の行動をとり、学生の本務を誤る場合には、予は教育会の名誉のために、四〇〇人や五〇〇人程度の学生を放逐するくらいのことは朝飯前の仕事に過ぎないと覚悟している」と訓示し、校風の刷新を図った。また自ら国語教材や辞書の編纂に携わり、県内初の学校併設図書館の設置などを精力的に行った。 明治14年(1881年)には司法界に転じて熊谷始審裁判所長、大審院検事、東京控訴院検事などを務める。13年間司法界で活躍し「裁判官らしからぬ裁判官」として異彩を放った。
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