教育界・学生運動
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反ユダヤ主義はドイツ教育界にも浸透していた。1880年にはベルリンの市電で教師ジーケが反ユダヤ的な発言をしていたのでユダヤ人が怒って殴った。教育学者ヘルマン・アールヴァルトは「アーリア民族とユダヤとの絶望的な闘争」(1890)を発表し、ユダヤから免れた民族は自然に発展して世界を支配できる、民族はユダヤの脅迫と闘うために断固として行動しなくてはならない、ユダヤ人はドイツからだけでなくヨーロッパ全土から追放されなければならないと主張した。1907年ポーゼンの学校の校長は、ユダヤ人は神聖な感覚を持っていないからユダヤ人の生徒は郷土学の授業を受けさせるべきではないと主張した。また全ドイツ連盟は教師が多く、36%が教員だった。 改革教育学者ヘルマン・リーツは田園教育舎運動をし、授業ではフライタークの「借り方と貸方」、ポペルト「ヘルムート・ハリンガ」、トライチュケ「19世紀ドイツ史」、テオドール・フリッチュの「鉄槌(ハンマー)」などが生徒に推薦された。新設校で当初はユダヤ人にも開放され、ユダヤからの寄付金を受け入れていたが、ドイツ愛国心を持つユダヤ人教員テオドール・レッシングを他のユダヤ人と共謀したとして解雇した。1910年にはユダヤ人の子どもは特別な推薦がいるとされた。リーツは第一次世界大戦で陸軍志願兵となり、戦中の著作で、資本主義の悪魔に魂を売り渡したユダヤ人の物質主義を批判し、ドイツ理想主義を称賛した。 体操の父ヤーンの影響をうけてワンダーフォーゲル運動をはじめたカール・フィッシャーは、郷土の自然への愛はゲルマン民族と祖国愛を呼び起こすとし、ゲルマン起源の儀式を行いもした。1913年、女性支部でユダヤ人少女が排除されたことで、ワンダーフォーゲル内部でユダヤ人問題が議論され、フィッシャーはユダヤ人には民族として敬意を表すが、ドイツ民族ではないとした。 1880年、ドイツ学生協会はユダヤ人を教職や公職から排除する請願運動を行った。1881年,ドイツ学生協会キフホイザー同盟が創設、合理主義を広めたユダヤ人との闘争を使命とした。1894年までにドイツ学生組合からユダヤ人は排除され、1919年に学生組合は、改宗によってはユダヤ人の人種性を緩和できないとするアイゼナハ決議に署名した。
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