教育界に入る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 07:19 UTC 版)
帰国した折田は、1876年(明治9年)11月16日付で文部省督学局勤務の辞令を受ける。後年折田本人が語ったところによれば、文部省入りは大久保利通の推薦によるというが、残されている折田の日記にはそうした事情は記されていない。折田は学監ダビッド・モルレーの通訳を務め、東京府の学校視察に同行するなどしている。 1878年(明治11年)4月には外務省に入った。これは外務大輔であった森有礼との関係によるものとみられる。なお、この4月に佐登子夫人と結婚している。同年11月4日には二等書記生としてイタリア・ローマ公使館勤務を命じられたが、病のため任地に赴かないまま辞職、文部省に戻った。 1879年(明治12年)10月、体操伝習所主幹に任命され、教育界に入る。この学校は体操指導者を育成する学校であり、ジョージ・アダムス・リーランドが教授として指導に当たっていた。折田の人事について、日本の体育教育の立ち遅れに対して兵式体操の導入を主張していた森有礼との関係を推測する見方がある。折田はその後校長を務める学校で、体操教育の導入に積極的に取り組むことになる。
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