憲法闘争
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ビスマルクの無予算統治開始により軍制改革争議は憲法闘争に転化された。進歩党は無予算統治を「外形的立憲主義であり、まさしく絶対主義」と批判し、「衆議院は正当防衛を行う状況にある」と主張。またビスマルクのごとき憲法無視を行う首相の責任を追及する手段がないことを憲法典の唯一の欠陥と主張し、1863年4月22日に改めて大臣責任制を定める法案を議会に提出した。同法案は衆議院で圧倒的多数で可決されたが、国王にもビスマルクにもその意思はなかったから政府と貴族院に対する牽制以上の意味はなかった(プロイセン憲法上立法は衆議院、貴族院、国王の一致が必要)。 ビスマルクは進歩党に対抗すべく、自由主義ジャーナリズムを弾圧したり、進歩党の力の源になっている三級選挙制度(ドイツ語版)の廃止を念頭に普通選挙を主張する社会主義者ラッサールに接近したりしたが、いずれも進歩党に対する決定打とはならなかった。 1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争については進歩党もドイツ・ナショナリズム運動として支持した。戦勝後の1865年1月にビスマルクは、この戦勝で自由主義者も妥協的になるのではないかと期待し、1年ぶりに議会が招集したが、進歩党をはじめとする自由主義派は引き続き憲法闘争における政府の屈服を求め、また軍事予算の減額を要求して国王の統帥権を干犯しようとした。ビスマルクが議会に提出した予算案や兵役法案は成立することなく6月に議会は閉会。無予算統治が継続され、憲法闘争も続いた。 しかし自由主義派の間ではビスマルクが成功させつつあるドイツ問題の解決を憲法闘争より優先すべきという意見が強まっていった。進歩党内においてもトヴェステンらがビスマルクの外交を評価するようになった。
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憲法闘争
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血を流すカンザスにおける暴力沙汰に付随して、カンザス州を統治することになる憲法に関する闘争があり、幾つかの憲法が起草された。 1855年に影の自由州政府が作られ、未登録ミズーリ州人投票者によってできた違法政府への抵抗を試みた「トピカ憲法(英語版)」が起草された。 1857年カンザス州憲法制定会議が招集され、奴隷制度擁護派の「ルコンプトン憲法(英語版)」と呼ばれることになる憲法案を起草した。それは奴隷制度に反対する投票を行う手段を与えていなかったので、奴隷制度廃止運動側は批准投票をボイコットした。ルコンプトン憲法はジェームズ・ブキャナン大統領に受け容れられ、ブキャナンは議会にその受容と州成立を促したが、議会はこれに同意せず、選挙を再度行うよう命じた。2度目の選挙では奴隷制度擁護派がボイコットし、奴隷制度廃止運動側が憲法案を否定することで勝利を宣言した。最終的にルコンプトン憲法は、それが住民過半数の意志を反映しているか明らかではなかったので、廃案とされた。 「レブンワース憲法(英語版)」も参照 1859年半ば、「ワイアンドット憲法(英語版)」が起草された。この憲法案には議会を制している奴隷制度廃止運動側の見解が盛り込まれた。選挙民の投票では2対1の比率で承認され、1861年1月29日、カンザス準州はその条件に自由州を求めることとして、合衆国にカンザス州として加入した。
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