ビスマルクを首相に任じる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)
「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「ビスマルクを首相に任じる」の解説
この危機的状況を前に陸相ローンは、独断で次の首相候補として駐パリ大使ビスマルクをベルリンに召喚した。ヴィルヘルムとビスマルクは9月22日にバーベルスベルク離宮で会見した。ヴィルヘルムは軍制改革を断行する勇気のある大臣が現れないのであれば、退位する旨をビスマルクに伝えたが、ビスマルクは自分は王権に尽くす忠臣であり、軍制改革を断行し、議会が承認しないなら無予算統治を行う覚悟であることを表明した。これを受けてヴィルヘルム1世は「それならば貴下とともに戦うのが私の義務である。私は退位しない。」と述べ、退位の意思を撤回し、ビスマルクを首相に任命した。王妃アウグスタはビスマルクを嫌っていたが、ヴィルヘルムは9月23日の彼女への手紙の中で「軍隊再編を取り消そうとする衆議院は軍と国に破滅を命じているに等しい。そういう鉄面皮に対抗するために同じ鉄面皮を登用することを私は躊躇わないし、躊躇ってはならないのだ」とその心境を表明している。 首相となったビスマルクは9月30日の衆議院予算委員会で鉄血演説を行ってドイツ統一のためには軍備拡張が必要であることを語り、進歩党のドイツ・ナショナリズムを高めて政府の軍制改革を支持させようとしたが、失敗し、逆にビスマルク批判が高まった。この演説があった際、ヴィルヘルムは家族を伴ってバーデンの温泉地で保養中だった。王妃アウグスタや娘婿のバーデン大公がビスマルク批判をヴィルヘルムに聞かせたが、ヴィルヘルムは首相任免権への介入をきっぱりと拒否したという(ただしビスマルクの回顧録には全く別なことが書かれている)。 結局ヴィルヘルム1世とビスマルクは1866年の普墺戦争勝利に至るまでの4年にわたって無予算統治を行い、軍制改革を強行した。これにより無予算統治を憲法違反と批判する自由主義者と無予算統治を空隙説で正当化する政府との間に憲法闘争(ドイツ語版)が巻き起こった。 ビスマルクはこの憲法闘争を小ドイツ主義統一を推し進めることによって解決を図り、最終的に1866年の普墺戦争中に行われた衆議院総選挙で保守派が圧勝したことにより、事後承認法(免責法とも訳される)が決議されて1862年以来の無予算統治がすべて免責されて終結している。
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