ビスマルクの社会政策
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「国家社会主義」の記事における「ビスマルクの社会政策」の解説
「en:State Socialism」も参照 ビスマルクの社会保障政策も、国家社会主義と呼ばれることがある。「全ドイツ労働者協会」の会長であったラッサールは、1863年からビスマルクと面談し、普通選挙の導入や生産組合への国家補助を要請した。こうした体制派に対するラッサールの取った姿勢は後々、マルクス主義側(特にコミンテルン以降)から「プチブルジョワ的社会主義」、あるいは「日和見主義的改良主義」などと批判された。 ビスマルクは1871年のドイツ統一後、1878年には社会主義者鎮圧法を制定したが、他方で労働者の社会保障や、教育費の無償化など社会主義的政策を実施した。これらは道徳国家を主張したラッサールの影響とされており、ビスマルクも自分が今まで会った人物の中でラッサールは「最も知的」とまで公然と評価していた。またアドルフ・ワグナーやグスタフ・フォン・シュモラーら講壇社会主義者の台頭することにもなった。ビスマルクは保守であったが、自由主義の進歩党やカトリックなどと対立しており、労働者階級の支持も必要とした。また「強いドイツ」の実現には、階級対立の緩和と民族の団結が必要であった。 ビスマルクは1881年に書いた手紙のなかで、自らの政策を「国家社会主義」 (ドイツ語: Staatssozialismus) と呼んだ。政治学者のバートランド・ラッセルはビスマルクの国家社会主義について「現実には、彼の政策には社会主義よりも国家の方がはるかに多く、国家社会主義という名は大きな誤解を招きやすいのである。」と述べた。ビスマルクの創設した災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度は労働者階級の福祉向上に大きく貢献し、その後のドイツの社会政策の基礎となり、欧米や日本など世界各国で導入された。
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