ビスマルクの引退後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/16 01:46 UTC 版)
「フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン」の記事における「ビスマルクの引退後」の解説
1890年3月ビスマルクと息子ヘルベルトの退官とともに、ホルシュタインはドイツ帝国の外交に強い影響を及ぼす政治家となった。卓越した行政能力と長年の経験が、彼を有能な外交官たらしめていた。 皇帝の親友であるフィリップ・ツー・オイレンブルク、そしてベルンハルト・フォン・ビューローとの協力のおかげで、彼は間接的に皇帝ヴィルヘルム2世の政策決定に影響を及ぼすことができた。 それ以降、ホルシュタインはビスマルクの作った同盟を解体していった。 帝国宰相カプリヴィと皇帝ヴィルヘルム2世が延長したがっていたにもかかわらず、1890年の春にホルシュタインはロシアとの再保障条約の継続を拒否した。ホルシュタインはイギリスをドイツ帝国の理想的な同盟国として考えており、長年彼はこの島国との同盟を目指して働いていたが、成功しなかった。ドイツの海外拡張策をホルシュタインは歓迎しなかったが、彼はヴィルヘルム2世の帝国主義的政策に対して拒否権を発動することもしなかった。 1904年には英仏協商が結ばれ、ホルシュタインは自身の外交政策の残骸の前で立ち尽くすことになった。イギリスはもはやドイツの宿敵となり、ロンドンをドイツの側に引き止めておくのは困難になった。さらには、建艦競争が独英関係を損なわせていた。 続く年に、ホルシュタインはフランスとイギリスの協調を崩そうと計画した。そのために彼が利用したのが第一次モロッコ危機と1906年のアルヘシラス会議だった。ホルシュタインと帝国宰相ビューローの想定は、イギリスはフランスのモロッコにおける植民地政策を支持しないだろうということだった。 ところがこの予想は誤りであり、イギリスはアルヘシラスでフランス側につき、英仏協商は保たれた。この結果、ホルシュタインは4月14日に辞任した。彼は最後まで、宰相と皇帝は自分の辞任を承諾しないだろうという空しい望みを抱いていた。 フリードリヒ・フォン・ホルシュタインは引退の3年後、1909年に亡くなった。 ホルシュタインの遺体はベルリンの戦没者墓地に葬られたが、墓は東ドイツ時代に破壊され、2009年になって新しい墓碑が建てられた。
※この「ビスマルクの引退後」の解説は、「フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン」の解説の一部です。
「ビスマルクの引退後」を含む「フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン」の記事については、「フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン」の概要を参照ください。
- ビスマルクの引退後のページへのリンク