ビスマルクとヴィルヘルム2世の対立
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「フランス第三共和政」の記事における「ビスマルクとヴィルヘルム2世の対立」の解説
ビスマルクは、ルーヴィエ首相とブーランジェ将軍の対立を奇貨として、1887年6月18日の独露再保障条約を締結したが、そのような状況下でもフランスは各地への植民地拡大政策を進めた。このことは、普仏戦争の敗北で傷つけられた国民感情を癒し、国威発揚につながる面もあった。また、ビスマルクとしてもフランスの軍事力がドイツへの復讐にではなく、植民地拡大にむかうことは歓迎できることであった。 ところが、ビスマルク体制でのフランスの国際的孤立から転換点となるのが、1888年6月15日のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の即位であった。自ら率先して国の舵取りを行う事を望んだ皇帝は1890年にビスマルクを辞任に追いやった。また、外交上のフリーハンドを優先し独露再保障条約の更新を見送った。これに反発したロシアは1891年から公然としてフランスに接近し、その軍事力と資本力を求めた。このあと、フランスには陰謀と暗殺が相次ぐことになる。
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