ビスマルクとの連携と地中海協定
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「ビスマルクとの連携と地中海協定」の解説
ソールズベリー侯爵はグラッドストン政権下で孤立したイギリス外交の修正を目指した。とりわけ植民地問題をめぐって関係が悪化していたドイツ首相ビスマルクとの関係修復に力を入れた。今やビスマルクと敵対するとイギリスと言えども孤立してしまうという外交的教訓からだった。 ビスマルクとしてもイギリスの協力が欲しい時期だった。バッテンベルク家のブルガリア公アレクサンダルの跡目をめぐるブルガリア問題でオーストリアとロシアの対立が深まっており、ビスマルクが維持しようとしてきた三帝同盟は空中分解していた。そこでビスマルクとしては新たなフランス(普仏戦争以降ドイツへの復讐が国是と化していた)封じ込めのヨーロッパ国際秩序の構築をする必要があった。 ソールズベリー侯爵はビスマルクの要請に応じて、1887年2月12日にイタリアと地中海協定(英語版)を締結した。この協定についてソールズベリー侯爵はヴィクトリア女王への報告書の中で「立憲君主国家のイタリアはイギリスと相いれる存在」とし、また「ビスマルク侯によれば大陸諸国のグループ分けが進んでいるといい、イギリスがそこから完全に孤立した状態でいると、大英帝国植民地が分割可能な獲物と見られてしまい、それを共通項にした大陸諸国の連携が考えられる」ことを指摘している。 3月24日にはビスマルクの仲介でオーストリアも地中海協定に加わることになった。これによって地中海協定は独墺伊三国で結ばれている三国同盟を補完する条約となった。 1887年夏に親墺・反露のフェルディナントがブルガリア公に即位したことで露墺関係が緊迫した。ビスマルクはロシアがブルガリア宗主国のトルコと接近する可能性を危惧するようになり、地中海協定の防衛対象にトルコを加えたがるようになった。「ヨーロッパの利益(海峡自由運航など)の擁護者たるトルコの領土保全」、「トルコはブルガリアの宗主権を他国に譲ってはならない」、「そうした原則が犯された場合、締結国はトルコを支援して回復を図る」、「トルコ自身が犯そうとした場合あるいは犯されたのに回復しようとしない場合は締結国はトルコ占領を協議できる」という内容の新協定案を地中海協定三国に送った。 ソールズベリー侯爵はロシア牽制の意味からこの新協定に乗り気だったが、同時にドイツが地中海協定に参加していないことから、イギリスがドイツの火中の栗を拾わされることになるのを懸念していた。またビスマルクに行政を委ねているドイツ皇帝ヴィルヘルム1世や親英自由主義者の皇太子フリードリヒならばまだ信頼できるが、ヴィルヘルム1世は90歳、フリードリヒ皇太子は喉頭癌を患っていたため、遠くない未来、反自由主義的に育っている皇太子の長男ヴィルヘルム皇子が皇位継承する可能性が高く、ドイツの親英政策が変更されることも考えられた。そのためソールズベリー侯爵はドイツで皇位継承があってもドイツが地中海協定と矛盾する行動をとらないという保証を求めた。 これに対してビスマルクは1887年11月にソールズベリー侯爵宛ての書簡を送り、「ドイツでは誰が君主になろうと露仏二正面作戦を常に想定しなければならない。ドイツはそのための同盟国が欲しいが、確保できないならオーストリアの独立が脅かされない限り、ロシアと協調するしかない」と説いた。最終的にソールズベリー侯爵はビスマルクのこの言を信じて、1887年12月12日にトルコ防衛を加えた第二次地中海協定を締結した。 なおこの2度の地中海協定はともに秘密協定であり、一般国民や英国議会には秘匿されていた。イギリスには依然として孤立主義が根強かったため、公式の同盟を議会で通すことは不可能に近かったためである。
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