第二次ソールズベリー内閣に閣外協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:35 UTC 版)
「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「第二次ソールズベリー内閣に閣外協力」の解説
第三次グラッドストン内閣は総辞職することになり、1886年7月に保守党政権の第2次ソールズベリー侯爵内閣が成立した。保守党が過半数に届かなかったため、自由統一党がキャスティング・ボートを握ることとなった。 ソールズベリー侯爵は自由統一党の党首ハーティントン侯爵に保守党と自由統一党の連立内閣の首相になってほしいと打診したが、ハーティントン侯爵はチェンバレンの自由党返りを警戒して自由統一党は閣外協力に留めたいと返答した。 チェンバレンは非公式綱領の思想を諦めてはおらず、自分が閣外協力する条件として地方自治の農村への拡張、土地改革制度推進を政府に要求した。 チェンバレンの圧力によってソールズベリー侯爵は次々と内政改革に着手した。1887年には自作農を増加させるべく配分地法が制定され、小作農一家族当たり1エーカーの土地を配分することが目指された。 1888年には地方自治法(英語版)が制定されて行政州ごとに代議制の州議会(英語版)が設置され、イギリス地方自治制度の基礎が築かれた。 1892年には既存の地主から土地を収容して小規模地主を増加させることを目的とした小農地保有法を制定させた。チェンバレンはその調査組織として創設された小農地特別委員会(Select Committee on Small Holding)の議長に就任した。チェンバレンはもともと地主から土地を強制収用することを希望していたが、その点は保守党がブレーキをかけ、収用は州議会と地主の合意によることとした。 1891年から1892年にかけて来る総選挙に備えて「労働綱領」を自由統一党の選挙綱領に掲げた。その内容は鉱山や危険労働を行う労働者の労働時間の制限、労働争議を仲裁する裁判所の設置、ドイツのビスマルクの社会政策をモデルとした労災保険や年金保険制度の創設、地方自治推進、外国移民の制限などを柱とする。ただこの綱領は財源の裏付けがない点に批判があった。保守党やホイッグ派とすっかり近しい存在になっていたチェンバレンとしては地主貴族や有産者層に負担を求めるわけにも行かず、社会政策の財源として植民地獲得に目を付けるようになっていく。チェンバレンはこの頃「帝国、それなくしてもはや経営者に貿易はありえない。したがって労働者に賃金もありえない」と語っている。
※この「第二次ソールズベリー内閣に閣外協力」の解説は、「ジョゼフ・チェンバレン」の解説の一部です。
「第二次ソールズベリー内閣に閣外協力」を含む「ジョゼフ・チェンバレン」の記事については、「ジョゼフ・チェンバレン」の概要を参照ください。
- 第二次ソールズベリー内閣に閣外協力のページへのリンク