第二次チャールストン攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/05 08:54 UTC 版)
「南部戦線 (アメリカ独立戦争)」の記事における「第二次チャールストン攻撃」の解説
クリントンは遂に1780年にチャールストン対して動き、3月には港を封鎖し、地域の部隊を10,000名に増強した。チャールストンに向かうクリントンを遮るものは無かった。大陸海軍の指揮官エイブラハム・ウィップル代将は8隻のフリゲート艦のうち5隻を港で自沈させ、防衛の用に供した。市中では、ベンジャミン・リンカーンが2,650名の大陸軍と2,500名の民兵を指揮して守っていた。イギリス軍のバナスター・タールトン大佐が4月のモンクスコーナーおよび5月初旬のレナヅフェリーでの勝利により市の補給路を抑え、チャールストンは包囲された。クリントンは3月11日に建設し始めた包囲線から町への砲撃を開始した。 5月12日、リンカーン将軍は5,000名の兵士と共に降伏した。これはアメリカ独立戦争の大陸軍では最大の降伏であり、南北戦争までこれを上回るものは無かった。イギリス軍に損害はほとんど無く、クリントンは南部最大の都市と港を抑え、恐らくこの戦争ではイギリス軍最大の勝利を収め、南部におけるアメリカ軍の構造を破滅に追い遣った。イギリス軍が南部におけるこの優位を失うことになるのは、1781年のギルフォード郡庁舎の戦い後にナサニエル・グリーン将軍がコーンウォリス将軍の手をすり抜けた時からだった。
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