第二次チンディット(サーズデイ作戦)
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「ビルマの戦い」の記事における「第二次チンディット(サーズデイ作戦)」の解説
詳細は「チンディット (2)(英語版)」を参照 チンディット部隊は増強され第3インド師団と改名されていた。1944年2月、フーコン河谷での米中連合軍の作戦を支援するため、チンディット部隊は2回目のビルマ侵入作戦「サーズデイ作戦」を開始した。3月5日、大量のグライダーを使用した空挺作戦により、3個旅団9,000名がマンダレー・ミイトキーナ間に降下し、フーコン河谷で苦闘を続ける第18師団への補給路を切断した。だが指揮官オード・ウィンゲート少将は3月24日、飛行機事故により不慮の死をとげた。 日本軍は再び部隊をかき集めて掃討に努めた。第53師団の掃討部隊4千人はモール付近でチンディット部隊と激しい戦闘となった。チンディット部隊はモールに陣地を構築し、空輸された増援も含めた1万6千人が立て篭もった。日本軍は4月初めに軽戦車や重砲も繰り出して攻撃したがゲリラ部隊による機動戦と陣地戦を併用したイギリス軍の戦術に撃退され、18日に後退した。5月、モールのチンディット部隊がインドへ撤退したため第53師団は補給路の回復に成功したものの、陸路で後退するチンディット部隊を完全に捕捉することはできなかった。フーコン河谷では第18師団が補給を回復したのもつかの間、カマインで退路を絶たれ玉砕の危機に至った。6月末、第18師団は退路を切り開きフーコン河谷から撤退した。 第18師団の捕捉に失敗したことは米英中の連帯不足が原因であり、スティルウェルにとって不満の残る結果だった。
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