第二次タロキナ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 20:58 UTC 版)
「ブーゲンビル島の戦い」の記事における「第二次タロキナ作戦」の解説
詳細は「第二次タロキナ作戦(英語版)」を参照 アメリカ軍の目的はタロキナ岬に航空基地を建設することで、ブーゲンビル島全域の占領は予定されていなかった。ブーゲンビル島は深いジャングルと2000メートル級の山が連なる非常に険しい地形を有しており、しかもマラリアやチフスなどの病原体が蔓延している等、軍事行動には最悪の条件がそろっていたためである。12月までにタロキナ岬に飛行場が完成し、連合軍の航空機はジャングルに潜む日本軍を手当たりしだいに爆撃するようになった。ニュージーランド空軍も進出した。日本側には航空兵力が無く、これを迎撃できずにいた。 日本の第17軍は第6師団を主力とする2万人近くの兵力で、陸路からのタロキナ航空基地制圧を再度試みることとした。1944年3月に、第6師団は全力を挙げて作戦を開始した(第二次タロキナ作戦)。しかし、またも移動途中のジャングルで消耗したうえ、激しい空襲を受けて損害が続出した。攻撃は3月8日に開始されたが、圧倒的な火力でのアメリカ軍の反撃により成果がないまま損害が増え、食料・弾薬にも事欠く状況になったため3月25日に攻撃中止を決定した。この作戦での第6師団の損害は、死傷率80%を超えた歩兵第45連隊を筆頭に死傷1万3千人の壊滅的なものであった。損害のうち少なくとも4千人以上は戦病によるものであった。この作戦で重火器の大半も失われた。第6師団長の神田中将は戦後の回想録の中で「攻撃を3月と決定したのは、食料が3月中になくなるため」と述べている。また神田中将は、「軍紀も勅諭も戦陣訓も百万遍の精神訓話も、飢の前には全然無価値であった」と語っている。。第二次タロキナ作戦後、アメリカ軍第37師団長ロバート・S・ベイトラー少将は降伏しようとする日本兵を捕虜とせずに射殺するよう命令し、多数が虐殺された。 戦史叢書はタロキナ作戦について、作戦自体の根本的欠陥を改善することなく同様な類型を繰り返したことがこの時期の南太平洋における陸軍作戦の特徴だと纏めた。
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