歩兵第230連隊とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 歩兵第230連隊の意味・解説 

歩兵第230連隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 06:59 UTC 版)

歩兵第230連隊
創設 1939年
廃止 1945年
所属政体 日本
所属組織  大日本帝国陸軍
編制単位 連隊
兵科 歩兵
所在地 静岡県静岡市
中華民国広東省
香港
フランス領インドシナ
ジャワ島
ソロモン諸島
ニューギニア
編成地 静岡県静岡市(現・葵区
通称号/略称 隆8926
上級単位 第38師団
最終上級単位 独立混成第40旅団
最終位置 ニューアイルランド島
(現・ パプアニューギニアニューアイルランド州
戦歴 大東亜戦争第二次世界大戦
蘭印作戦ガダルカナル島の戦い
テンプレートを表示

歩兵第230連隊(ほへいだい230れんたい、歩兵第二百三十聯隊)は、静岡で編成された大日本帝国陸軍連隊のひとつ。

沿革

連隊主力は静岡県内で、第3大隊は岐阜で編成され、編成後第38師団隷下となり広東に派遣され、1941年(昭和16年)末まで同地の警備に当たる。

太平洋戦争勃発により香港攻略戦に参加。香港占領後、兵力を整備して1942年(昭和17年)1月19日に香港を出港。仏印カムラン湾に入港し、シンガポール陥落後の第16軍(司令官:今村均中将)の指揮下に入り蘭印(インドネシア)攻略に参加した。連隊主力はジャワ、第3大隊はスマトラ島パレンバンに上陸し、予想以上の速さで蘭印攻略作戦を完了する。

1942年10月、ラバウルに進出した連隊は、一木支隊、川口支隊に続くガダルカナル奪回部隊の第3陣として、第2師団の指揮下に入る。

1942年10月15日夜、ガダルカナル島西海岸のタサファロングに上陸。上陸地点から東海岸のルンガ飛行場までの86キロを工兵隊が切り開き、川口支隊(第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹)長・川口清健少将指揮の下、“血染めの丘”正面の米軍攻撃を企図。しかし、連隊もルンガ飛行場への進出が遅れ、川口少将は大本営派遣作戦参謀辻政信中佐により罷免。以後、連隊長・東海林俊成大佐が指揮をした。

1942年10月24日、予定より5日遅れてルンガ飛行場への総攻撃が開始された。連隊は右翼に位置していたが、この日に米軍陣地に突入できず、更に第2師団の攻撃も振るわず後退。翌25日、再び夜襲を敢行したが、米軍の猛烈な集中砲火を浴びて死傷者が続出し、攻撃は失敗。連夜の攻撃頓挫により連隊は撤退を余儀なくされた。

第38師団と共にラバウルに残っていた第2大隊が1942年11月、ガダルカナル島を目指したが途中で輸送船の多くが撃沈され、師団主力は海没。奇跡的に第2大隊は上陸に成功し、独立混成第40旅団に編入される。しかし、将兵は飢えと病気で戦死するより病死・餓死するほうが多かった。

1943年(昭和18年)1月、ガダルカナル島からブーゲンビル島へ撤退。その後、ラバウル、ニューアイルランド島と転戦し、同地で終戦を迎えた。

1946年(昭和21年)5月、残存兵全員の復員を完了し任務を完遂した。

歴代連隊長

歴代の連隊長
(特記ない限り陸軍大佐
氏名 在任期間 備考
1 滝本一麿 1939.8.1 -
2 東海林俊成 1941.4.1 -
久重和吉 1943.3.23 -

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「歩兵第230連隊」の関連用語

歩兵第230連隊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



歩兵第230連隊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの歩兵第230連隊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS