九龍半島攻略
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1941年12月8日朝、真珠湾攻撃と同時刻に第23軍飛行隊は啓徳飛行場のイギリス軍機に対して航空第一撃を加えた。開戦命令の電文は「ハナサク・ハナサク」という暗号であった。イギリス軍は対応が遅れ、啓徳空港もこの際に攻撃され、マニラから到着したばかりのパンアメリカン航空のシコルスキー S-42をはじめとする航空機を日本軍に破壊され、空軍機と義勇軍使用の民間機、航空会社の民間機あわせて12機が炎上、2機が大破し全飛行機を失ってしまった。 同日、第23軍各部隊も順次国境を突破して前進した。酒井軍司令官は九龍要塞ジン・ドリンカーズ・ライン主陣地への組織的攻撃を意図し、各部隊に準備を命じた。攻撃発起までの準備期間としては1週間程度が予定されていた。 ところが9日夜、第38師団戦闘指揮所へ、歩兵第228連隊から「標高二五五ニ拠リ頑強ニ抵抗スル敵ニ対シ夜襲シ奮戦約三時間ニシテ二三三〇之ヲ占領セリ」という内容を含む電報が届いた。歩兵第228連隊長土井定七大佐は後方で敵情地形を偵察していたが、城門貯水池南側高地に対する夜襲を考えた。南側地区は自己連隊の責任外地域であったが、土井連隊長は、イギリス軍に隙があるのならば、奇襲をもって敵陣地を奪取したいとの願望を密かに抱いていた。 9日夜、土井連隊長は第3大隊に夜襲の決行を命じた。20時30分、若林東一中尉の率いる第10中隊は255高地のイギリス軍陣地に突入し、3時間の戦闘の末これを奪取した。土井連隊長の独断専行を知った佐野師団長以下師団司令部は激しく動揺し後退を命じたものの、土井連隊長は司令部からの電話を切ってしまった。若林中隊はさらに前進し、10日1時には341高地まで占領した。酒井軍司令官は急報を聞き激怒したが、この際、この機に乗じて所定の準備期間を待つことなく攻撃を開始しようと決断した。第1砲兵隊は準備未了の状態であったが10日午後から砲撃を開始しイギリス軍の主要な砲兵陣地を制圧、右翼の歩兵第230連隊も11日未明から攻撃前進を始め、同日昼までにジン・ドリンカーズ・ライン西側の主防衛線である366高地と256高地を占領した。11日12時、イギリス軍は香港島への撤退を発令した。 九龍半島での掃討戦は13日までに終了した。開戦前に日本軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、実際に要した日数は開戦後わずか6日であった。日本軍の戦死22名、戦傷121名。イギリス軍は遺棄死体165、捕虜49名を数えた。 軍司令部では、土井連隊長の独断専行について軍法会議に付すべきとの声もあがったが、「若林中尉が、前線を偵察中に偶然敵兵力配備の欠陥と警戒の虚を発見し、挺進敵陣地に突入しこれを奪取した」とすることで収拾が図られ、支那派遣軍総司令部および大本営に報告された。若林中尉には後に感状が授与され、「斥候中の挺進奪取」という話は流布した。若林中尉は1943年1月にガダルカナル島で戦死した。
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