第二次ソールズベリー侯内閣の蔵相
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「ランドルフ・チャーチル (1849-1895)」の記事における「第二次ソールズベリー侯内閣の蔵相」の解説
その後、再び政権についたグラッドストン自由党政権はアイルランド自治法案をめぐって分裂し、ジョゼフ・チェンバレンらが自由党を離党して自由統一党を結成した。保守党と自由統一党の連携の結果、アイルランド自治法は否決され、グラッドストンは議会を解散した。選挙戦にはランドルフ卿が活躍し、辛辣なグラッドストン政権批判を展開した。その結果、1886年7月の総選挙(英語版)で自由党は敗れ、グラッドストン内閣は総辞職。8月には自由統一党の閣外協力を得て第二次ソールズベリー侯爵内閣が発足した。ソールズベリー侯爵は党内の反対論を抑えて、総選挙の功労者ランドルフを庶民院院内総務兼大蔵大臣に任じた。庶民院院内総務の地位を得たことは事実上次期首相であることを意味していた。 しかしこれにいい気になったランドルフは首相ソールズベリー侯爵を軽んじるようになり、独自路線をとることが増えた。 ランドルフは所得税・茶税・たばこ税の減税と相続税・固定資産税の増税、また軍事費削減などの緊縮を柱とする予算案の作成を行ったが、陸軍大臣ウィリアム・ヘンリー・スミスがこれに反発して首相ソールズベリー侯爵に仲裁を求めた。ソールズベリー侯爵はスミス陸相を支持したが、それに反発したランドルフは『タイムズ』紙に辞職の意を表明し、それによってソールズベリー侯爵を翻意させようとした。 しかしもともとソールズベリー侯爵にとってランドルフは、自由党のチェンバレンに対抗するための道具であり、チェンバレンが自由党を離れて閣外協力者となった今、さほど必要のない存在になっていた。党内にランドルフに同調しようという動きも見られなかった。そのためソールズベリー侯はランドルフの辞任の申し出をあっさりと了承し、保守党と自由統一党の連携強化の企図からジョージ・ゴッシェンを後任の蔵相とした。この人事に関して、ランドルフ自身は「ゴッシェンのことを忘れておったわ」とほぞを噛んだという。 当時37歳であったランドルフは首相目前まで迫りながら、これをもって失脚した。ランドルフが保守党の中枢に戻れる日は二度とこなかった。
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