第二次スウェーデン十字軍前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:21 UTC 版)
「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の記事における「第二次スウェーデン十字軍前後」の解説
「ru:Войны Новгорода с емью」および「ru:Второй шведский крестовый поход」も参照 13世紀には、スウェーデン・ノヴゴロド両国の関心はフィンランドで交錯した。9世紀より、ノヴゴロド軍はフィンランドのヤミ(エミ)族への定期的な遠征を行っていた。スウェーデンもまた1240年代にヤミ族に対する遠征軍を派遣し、ノヴゴロド軍と衝突した。この紛争は1249年にスウェーデンがフィンランドを征服する形で終結した。スウェーデンが征服した各地域では、カトリック化が推し進められた。 モンゴルのルーシ侵攻の後、ローマ教皇グレゴリウス9世は、リヴォニア騎士団、デンマーク、スウェーデンの領主によるルーシへの十字軍(ru)を提唱した。1240年の夏、ビルゲルを長とするスウェーデン軍がネヴァ川岸(支流のイジョラ川河口付近)に上陸し、ラドガを陥した。スウェーデン軍侵入の報を受けたノヴゴロド公アレクサンドルは、自身のドルジーナ(近衛)隊とノヴゴロドのオポルチェニエ(ru)(民兵)隊とを率いて出撃し、ネヴァ川河畔に滞陣中のスウェーデン軍に奇襲をかけた。この戦いでスウェーデンの陣と多くの船が破壊され、ノヴゴロド軍の勝利に終わった(ネヴァ川の戦い)。ノヴゴロド公アレクサンドルはこの勝利をもって、後世にはアレクサンドル・ネフスキー(ネヴァ川のアレクサンドル)と称されることになる。なお、同年リヴォニア騎士団が、イズボルスク、プスコフ等のチュド湖周辺へ遠征軍を派遣したが、1242年、チュド湖において、同じくアレクサンドルによって撃破されている(氷上の戦い(ru))。 スウェーデン敗北の7年後、ノヴゴロド軍はスウェーデン統制下のフィンランドに進入し、同地を荒廃させた。
※この「第二次スウェーデン十字軍前後」の解説は、「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の解説の一部です。
「第二次スウェーデン十字軍前後」を含む「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の記事については、「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の概要を参照ください。
- 第二次スウェーデン十字軍前後のページへのリンク