第2次ニューカッスル公爵内閣
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第2次ニューカッスル公爵内閣(英語: Second Newcastle ministry)、またはニューカッスル=ピット内閣(英語: Newcastle–Pitt ministry)は、1757年から1762年までのグレートブリテン王国の内閣。ニューカッスル公爵は、2度目の首相職についたが、内閣の中で最も影響力を持ち、最も有名なのは南部担当国務大臣のウィリアム・ピットであった。
第2次ニューカッスル公爵内閣は七年戦争で不利だったイギリスの政情不安を終わらせた。ピットは戦争遂行の指導者としての素質があったが、議会の支持に欠けた。庶民院での支持基盤が堅いニューカッスル公はそれを補い、ピットが防衛と外交、ニューカッスル公が財政と後援と分業をした。
内閣はイギリスの七年戦争における1759年の奇跡の年など数多くの勝利に導き、1761年までにはイギリスの勝利が確実視された。1760年、老王ジョージ2世が死亡してピットとニューカッスル公を嫌ったジョージ3世が即位したため内閣への圧力が増し、1761年には対スペイン宣戦をめぐってピットが辞任した。1762年、ニューカッスル公が辞任、ジョージ3世の寵臣ビュート伯爵が首相に就任したことで内閣は倒れた[1]。
閣僚
役職 | 肖像 | 名前 | 在任 |
---|---|---|---|
第一大蔵卿[2] 貴族院院内総務 |
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ニューカッスル公爵 | 1757年 - 1762年 |
財務大臣[3] 第二大蔵卿 |
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ヘンリー・ビルソン=レッグ | 1757年 - 1761年 |
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バリントン子爵 | 1761年 - 1762年 | |
大法官[4] 国璽尚書 |
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サー・ロバート・ヘンリー | 1757年 - 1762年 |
枢密院議長[5] | ![]() |
グランヴィル伯爵 | 1751年 - 1762年 |
王璽尚書[6] | ![]() |
テンプル伯爵 | 1757年 - 1761年 |
空位 | 1761年 | ||
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ベッドフォード公爵 | 1761年 - 1762年 | |
庶民院院内総務 | ![]() |
ウィリアム・ピット(大ピット) | 1757年 - 1761年 |
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ジョージ・グレンヴィル (海軍会計長官を兼任) |
1761年 - 1762年 | |
南部担当国務大臣[7] | ![]() |
ウィリアム・ピット(大ピット) | 1757年 - 1761年 |
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エグルモント伯爵 | 1761年 - 1762年 | |
北部担当国務大臣[7] | ![]() |
ホルダーネス伯爵 | 1757年 - 1761年 |
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ビュート伯爵 | 1761年 - 1762年 | |
補給庁長官[8] | ![]() |
マールバラ公爵 | 1757年 - 1758年 |
空位 | 1758年 - 1759年 | ||
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リゴニア子爵 | 1759年 - 1762年 | |
海軍大臣[9] | ![]() |
アンソン男爵 | 1757年 - 1762年 |
スコットランド国璽尚書[10] | ![]() |
アーガイル公爵 | 1733年 - 1761年 |
クイーンズベリー公爵 | 1761年 - 1762年 | ||
宮内長官[11] | ![]() |
デヴォンシャー公爵 | 1757年 - 1762年 |
家政長官 | ![]() |
ラトランド公爵 | 1755年 - 1761年 |
タルボット伯爵 | 1761年 - 1762年 | ||
ランカスター公領大臣 | ![]() |
エッジカム男爵 | 1757年 - 1758年 |
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キノール伯爵 | 1758/59年 - 1762年 | |
アイルランド総督 | ![]() |
ベッドフォード公爵 | 1757年 - 1761年 |
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ハリファックス伯爵 | 1761年 - 1762年 | |
主馬頭[12] | ![]() |
ゴア伯爵 | 1757年 - 1760年 |
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ハンティンドン伯爵 | 1760年 - 1761年 | |
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ラトランド公爵 | 1761年 - 1762年 | |
陸軍支払長官 | ![]() |
ホランド男爵 | 1757年 - 1765年 |
関連項目
- 七年戦争におけるイギリス
脚注
- ^ Middleton, p. 209
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 112.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 168.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 105.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 119.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 147.
- ^ a b Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 172.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 192.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 160.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 401.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 206.
- ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 209.
参考文献
- Middleton, Richard (1985). The Bells of Victory: The Pitt-Newcastle Ministry and the Conduct of the Seven Years' War, 1757–1762 (英語). Cambridge University Press.
先代 暫定内閣 |
グレートブリテン王国の内閣 1757年 - 1762年 |
次代 ビュート伯爵内閣 |
第二次ニューカッスル公爵内閣
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「トマス・ペラム=ホリス (初代ニューカッスル公爵)」の記事における「第二次ニューカッスル公爵内閣」の解説
「第2次ニューカッスル公爵内閣」も参照 デヴォンシャー公爵の後継をめぐってはニューカッスル公爵とフォックスの間で争いがあったが、ニューカッスル公爵は更迭された大ピットと手を組むことで庶民院における基盤を確立し、フォックスとの競争に競り勝った。ヨーロッパと北米大陸で戦争をかかえたイギリス国内政治に安定をもたらすためには、貴族院勢力をもつニューカッスル公爵と、庶民院独立派にも影響力をもち、英国民からの絶大な人気を集める大ピットが連合するしかなかった。1757年6月末にニューカッスル公爵は組閣の大命を受け、第二次ニューカッスル公爵内閣が成立する運びとなった。同内閣においてニューカッスル公爵は、国王や議会から安定した支持を確保することで軍事費を調達する役割を担い、七年戦争の戦争指導は国務大臣の大ピットが担っていた。 七年戦争において、イギリスは「軍事の天才」といわれたプロイセン王国の大王フリードリヒ2世と手を組んだ。ヨーロッパ大陸においてハノーファーを守りながらオーストリア(ハプスブルク帝国)やロシア帝国と戦うのはプロイセン陸軍にまかせ、イギリスは海軍力を駆使して北アメリカ大陸、西インド諸島、インド亜大陸などにおいてフランス勢力と対峙した。ニューカッスル公爵と大ピットの2人は協力して七年戦争の遂行に全力を注ぎ、フランスの植民地の制圧に大きく貢献した。1758年には破竹の勢いのプロイセンに年間67万ポンドもの軍資金を送り、翌1759年にはイギリスが世界各地でフランスを打ち破って、この年は「奇跡の年(Annus Mirabilis、アヌス・ミラビリス)」と呼ばれた。しかし、これをピークにプロイセンのヨーロッパ大陸での勢いは止まり、彼らの人気はカナダにおけるフランスの根拠地であるケベックを占領したこの年以降はしだいに下降に転じていった。 さらに、ジョージ2世が1760年に崩御、孫のジョージ3世が即位すると、その家庭教師役を務めていた第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートが国務大臣に任じられ、発言力を増した。国王とビュート伯爵は七年戦争の早期講和を目指しており、完全勝利まで戦争続行を主張する大ピットと対立を深めた。1761年8月にフランスとスペインが同盟を締結すると、大ピットはスペインにも宣戦布告することを要求したが、国王とビュート伯爵はそれに反対した。ニューカッスル公爵も財政が持たないことと国民の厭戦気分が高まっている事を理由にスペインとの開戦には反対、孤立した大ピットは10月に辞職した。 大ピットが閣内を去るとビュート伯爵の権勢は更に増し、ニューカッスル公爵も閣内で孤立しはじめた。スペインとは結局1762年1月に戦争になったが、ビュート伯爵はその戦費を捻出するためにニューカッスル公爵のプロイセンへの供与金続行案に反対した。ニューカッスル公爵にビュート伯爵を押しとどめる力はもはやなく、プロイセンへの供与金廃止が決定されるに及んで5月に辞職した。後任の首相にはビュート伯爵が就任した。1762年末までにニューカッスル公に近い政治家はほとんどが政府役職を更迭されている。
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