第二次ニューカッスル公爵内閣とは? わかりやすく解説

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第2次ニューカッスル公爵内閣

(第二次ニューカッスル公爵内閣 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 04:04 UTC 版)

ニューカッスル公爵

第2次ニューカッスル公爵内閣英語: Second Newcastle ministry)、またはニューカッスル=ピット内閣英語: Newcastle–Pitt ministry)は、1757年から1762年までのグレートブリテン王国の内閣。ニューカッスル公爵は、2度目の首相職についたが、内閣の中で最も影響力を持ち、最も有名なのは南部担当国務大臣ウィリアム・ピットであった。

第2次ニューカッスル公爵内閣は七年戦争で不利だったイギリスの政情不安を終わらせた。ピットは戦争遂行の指導者としての素質があったが、議会の支持に欠けた。庶民院での支持基盤が堅いニューカッスル公はそれを補い、ピットが防衛と外交、ニューカッスル公が財政と後援と分業をした。

内閣はイギリスの七年戦争における1759年の奇跡の年など数多くの勝利に導き、1761年までにはイギリスの勝利が確実視された。1760年、老王ジョージ2世が死亡してピットとニューカッスル公を嫌ったジョージ3世が即位したため内閣への圧力が増し、1761年には対スペイン宣戦をめぐってピットが辞任した。1762年、ニューカッスル公が辞任、ジョージ3世の寵臣ビュート伯爵が首相に就任したことで内閣は倒れた[1]

閣僚

役職 肖像 名前 在任
第一大蔵卿[2]
貴族院院内総務
ニューカッスル公爵 1757年 - 1762年
財務大臣[3]
第二大蔵卿英語版
ヘンリー・ビルソン=レッグ 1757年 - 1761年
バリントン子爵 1761年 - 1762年
大法官[4]
国璽尚書
サー・ロバート・ヘンリー 1757年 - 1762年
枢密院議長[5] グランヴィル伯爵 1751年 - 1762年
王璽尚書[6] テンプル伯爵 1757年 - 1761年
空位 1761年
ベッドフォード公爵 1761年 - 1762年
庶民院院内総務 ウィリアム・ピット(大ピット) 1757年 - 1761年
ジョージ・グレンヴィル
海軍会計長官英語版を兼任)
1761年 - 1762年
南部担当国務大臣[7] ウィリアム・ピット(大ピット) 1757年 - 1761年
エグルモント伯爵 1761年 - 1762年
北部担当国務大臣[7] ホルダーネス伯爵 1757年 - 1761年
ビュート伯爵 1761年 - 1762年
補給庁長官英語版[8] マールバラ公爵 1757年 - 1758年
空位 1758年 - 1759年
リゴニア子爵英語版 1759年 - 1762年
海軍大臣[9] アンソン男爵 1757年 - 1762年
スコットランド国璽尚書英語版[10] アーガイル公爵英語版 1733年 - 1761年
クイーンズベリー公爵 1761年 - 1762年
宮内長官英語版[11] デヴォンシャー公爵 1757年 - 1762年
家政長官英語版 ラトランド公爵 1755年 - 1761年
タルボット伯爵英語版 1761年 - 1762年
ランカスター公領大臣 エッジカム男爵 1757年 - 1758年
キノール伯爵 1758/59年 - 1762年
アイルランド総督 ベッドフォード公爵 1757年 - 1761年
ハリファックス伯爵 1761年 - 1762年
主馬頭英語版[12] ゴア伯爵 1757年 - 1760年
ハンティンドン伯爵英語版 1760年 - 1761年
ラトランド公爵 1761年 - 1762年
陸軍支払長官英語版 ホランド男爵 1757年 - 1765年

関連項目

  • 七年戦争におけるイギリス英語版

脚注

  1. ^ Middleton, p. 209
  2. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 112.
  3. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 168.
  4. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 105.
  5. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 119.
  6. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 147.
  7. ^ a b Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 172.
  8. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 192.
  9. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 160.
  10. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 401.
  11. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 206.
  12. ^ Haydn, Joseph (1851). Haydn's Book of Dignities (英語). p. 209.

参考文献

  • Middleton, Richard (1985). The Bells of Victory: The Pitt-Newcastle Ministry and the Conduct of the Seven Years' War, 1757–1762 (英語). Cambridge University Press.
先代
暫定内閣
グレートブリテン王国の内閣
1757年 - 1762年
次代
ビュート伯爵内閣

第二次ニューカッスル公爵内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:58 UTC 版)

トマス・ペラム=ホリス (初代ニューカッスル公爵)」の記事における「第二次ニューカッスル公爵内閣」の解説

第2次ニューカッスル公爵内閣」も参照 デヴォンシャー公爵後継めぐってニューカッスル公爵フォックスの間で争いがあったが、ニューカッスル公爵更迭され大ピット手を組むことで庶民院における基盤確立しフォックスとの競争競り勝ったヨーロッパ北米大陸戦争かかえたイギリス国内政治安定もたらすためには、貴族院勢力をもつニューカッスル公爵と、庶民院独立派にも影響力をもち、英国民からの絶大な人気集め大ピット連合するしかなかった。1757年6月末にニューカッスル公爵組閣の大命を受け、第二次ニューカッスル公爵内閣が成立する運びとなった。同内閣においてニューカッスル公爵は、国王議会から安定した支持確保することで軍事費調達する役割担い七年戦争戦争指導国務大臣大ピット担っていた。 七年戦争において、イギリスは「軍事天才」といわれたプロイセン王国大王フリードリヒ2世手を組んだヨーロッパ大陸においてハノーファー守りながらオーストリアハプスブルク帝国)やロシア帝国と戦うのはプロイセン陸軍にまかせ、イギリス海軍力駆使して北アメリカ大陸西インド諸島インド亜大陸などにおいてフランス勢力対峙した。ニューカッスル公爵大ピット2人協力して七年戦争遂行全力注ぎフランスの植民地制圧大きく貢献した1758年には破竹の勢いプロイセン年間67ポンドもの軍資金送り、翌1759年にはイギリス世界各地フランス打ち破ってこの年は「奇跡の年Annus Mirabilisアヌス・ミラビリス)」と呼ばれた。しかし、これをピークプロイセンヨーロッパ大陸での勢い止まり、彼らの人気カナダにおけるフランス根拠地であるケベック占領したこの年以降はしだい下降転じていった。 さらに、ジョージ2世1760年崩御、孫のジョージ3世即位すると、その家庭教師役を務めていた第3ビュート伯爵ジョン・ステュアート国務大臣任じられ発言力増した国王ビュート伯爵七年戦争早期講和目指しており、完全勝利まで戦争続行主張する大ピット対立深めた1761年8月フランススペイン同盟締結すると、大ピットスペインにも宣戦布告することを要求したが、国王ビュート伯爵はそれに反対した。ニューカッスル公爵財政持たないことと国民厭戦気分高まっている事を理由スペインとの開戦には反対孤立した大ピット10月辞職した大ピット閣内を去るとビュート伯爵権勢は更に増しニューカッスル公爵閣内孤立しはじめたスペインとは結局1762年1月戦争になったが、ビュート伯爵はその戦費捻出するためにニューカッスル公爵プロイセンへの供与続行案に反対した。ニューカッスル公爵ビュート伯爵押しとどめる力はもはやなく、プロイセンへの供与廃止決定される及んで5月辞職した後任首相にビュート伯爵就任した1762年末までにニューカッスル公に近い政治家はほとんどが政府役職更迭されている。

※この「第二次ニューカッスル公爵内閣」の解説は、「トマス・ペラム=ホリス (初代ニューカッスル公爵)」の解説の一部です。
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