軍制改革への抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/07 07:25 UTC 版)
進歩党は1862年3月に軍事費を含めた予算の公表を求める決議案を衆議院に可決させた。これは国王ヴィルヘルム1世や軍部が推し進めようとしていた軍制改革を牽制するものだった。反発した国王は衆議院を解散するとともに新時代内閣を更迭し、反自由主義内閣を創設した。しかし1862年5月の解散総選挙の結果は政府にとってさらに壊滅的だった。保守党の議席は11議席になり、政府に協力的な態度をとった旧派自由主義とカトリック派も大きく議席を落とす一方、進歩党が135議席、中央左派が96議席を獲得して躍進した。 1862年9月11日から18日のプロイセン衆議院は軍制改革を盛り込んだ予算案を拒否する態度をとり紛糾した。進歩党のカール・トヴェステン(ドイツ語版)ら一部議員が妥協案を提出したが、国王はこれを統帥権の干犯と看做して応じず、無予算統治で軍制改革を断行する決意を固めた。この国王の非妥協的な態度に進歩党はじめ衆議院各会派は憤慨して妥協案は否決された。 軍部にはマントイフェルを中心に衆議院に対するクーデタを求める声もあったが、国王には妥協する意志もクーデタを起こす意志もなく、9月22日に無予算統治断行の覚悟があるオットー・フォン・ビスマルクを首相に任命した。ビスマルクは1862年10月にも空隙説というプロイセン憲法学説に基づいて、議会の承認を得ていない予算に基づいて国政を執行するという「無予算統治」を開始した。進歩党はじめ自由主義派は無予算統治を憲法違反として批判し憲法闘争(ドイツ語版)を開始した。
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