軍務と教育
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「ジョージ6世 (イギリス王)」の記事における「軍務と教育」の解説
1909年にオズボーン海軍幼年学校に入学し、軍人教育を受け始めた。勉学に対しては不真面目であったものの1911年に行われた幼年学校での卒業試験では首席だったが、そのまま海軍兵学校へと進学している。1910年5月6日にエドワード7世が崩御し、王太子である父ジョージがジョージ5世として国王に即位した。これにより、アルバートの王位継承権は兄エドワードに次いで2位となった。 アルバートは1913年の上半期を、装甲巡洋艦カンバーランド (en:HMS Cumberland (1902)) に乗船し、西インド諸島近海、カナダ東沿岸での訓練航海で過ごしている。1913年9月15日に、海軍士官候補生として戦艦コリンウッドに乗り組み、地中海で3カ月間の訓練を受けた。このときにはアルバートがイギリス王子であることを隠すために「ジョンソン」という名前で呼ばれていた。 アルバートは翌年に勃発した第一次世界大戦に従軍している。コリンウッドに乗り組んだアルバートは、第一次世界大戦で最大の海戦であり、最終的な勝敗の帰趨が不明瞭となった、対ドイツ帝国海軍とのユトランド沖海戦に参加し、砲塔担当の士官として殊勲報告書 (en:Mentioned in Despatches) にその名が記載された。その後、アルバートは十二指腸潰瘍を患って1917年に手術を受けたため、以降の戦闘には参加することが出来なかった。1918年2月にアルバートは、クランウェル基地 (en:RAF Cranwell) に設立されていたイギリス海軍航空隊のチャージ・オブ・ボーイズ連隊付き士官に任命された。その2カ月後にイギリス空軍が正式に発足し、クランウェル基地の所属が海軍から空軍へと移された。このときにアルバートもイギリス海軍からイギリス空軍へと転籍している。 アルバートは、クランウェル空軍基地の第4飛行戦隊ボーイズ・ウィングの指揮官に任命され、1918年8月までこの任務に就いていた。また、アルバートは、飛行操縦資格を正式に取得した最初のイギリス王族でもあった。大戦終結間際の数週間は、フランスのナンシーに置かれた、イギリス空軍独立戦略爆撃隊 (en:Independent Air Force) の司令部参謀としての任務に就いていた。第一次世界大戦の終結によって、1918年11月に独立戦略爆撃隊は解体されたが、アルバートはそのままイギリス空軍参謀としてヨーロッパ大陸にとどまり、イギリス本国へ帰還したのは、その2カ月後のことだった。 1919年10月にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し、歴史学、経済学、市政学を1年間学んだ。1920年6月4日にはヨーク公爵、インヴァネス伯爵、キラニー男爵に叙せられている。 アルバートは以前にも増して公務に時間を割くようになり、国王の名代として、炭鉱、工場、車両基地などの視察を行っている。このような産業施設の訪問によって、アルバートは「産業王子 (Industrial Prince)」と呼ばれるようになっていった。アルバートは労働条件に興味を持つようになり、労働福祉協会 (en:Industrial Welfare Society) の総裁を務めたこともある。また、1921年から1939年まで、毎年夏に、様々な社会的階級の少年たちを集めたキャンプに参加していた。しかしながら、幼少の頃から悩まされていた吃音症に起因するおどおどとした様子と、生来の内気さから、兄エドワードほどには目立った存在とはいえなかった。だが、身体的には活動的で、テニスを楽しむ一面もあった。
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