対トルコ遠征と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 09:27 UTC 版)
「アレクサンデル・マゾヴィエツキ」の記事における「対トルコ遠征と死」の解説
1442年、アレクサンデルはフェリクス5世のオーストリア・ハンガリー・ポーランドへの教皇特使としてウィーンに赴いたが、ここでエウゲニウス4世の使節団に遭遇した。彼らは皇帝フリードリヒ3世に対オスマン帝国十字軍を行うよう求めていた。アレクサンデルはこの非現実的な計画を思いとどまるよう説いた。両者は激しい議論を交わし、アレクサンデルが相手方のチェザリーニ枢機卿に殴りかかるほどであったが、最終的にフリードリヒ3世はアレクサンデルの意見を容れて遠征を取りやめた。 こののち、アレクサンデルはハンガリー王ウラースロー1世にも対オスマン遠征を思いとどまらせるためハンガリーへの旅を計画している途上、病にかかり1444年6月2日に急死した。アレクサンデルはウィーンのシュテファン大聖堂に葬られた。なお5か月後の11月10日、ウラースロー1世はヴァルナの戦いでオスマン帝国に敗れ戦死した。
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