中継貿易の衰退と苦境に立つ琉球
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「中継貿易の衰退と苦境に立つ琉球」の解説
明の強力なバックアップのもと、中継貿易で繁栄した新興国琉球であったが、1430年代からは明の優遇策が徐々に廃止されていき、15世紀半ば以降、朝貢貿易は衰退していく。そのような状況下で、琉球を拠点とした中継貿易も次第に振るわなくなっていく。まず大きく立ちはだかったのが、明からの船舶下賜の中断であった。明からの船舶下賜の中断はまず琉球に対する優遇策を取ることのメリットが減少したためであるが、もう一つ明自体の衰退も要因のひとつであった。琉球側は明の造船所で船舶の建造を行ったり、自前で船を建造するなどの対策を行ったが、明から下賜された大型船を中継貿易に使用していた琉球にとってその痛手は大きかった。 もちろん明との朝貢貿易自体の不振も琉球の中継貿易衰退の要因となった。中国製品の入手量が減ればその分、琉球で中継される東南アジア等の他地域の商品量が減少することになる。そして15世紀後半から16世紀に入ると中国近海の情勢が激変していく、それまで東アジア、東南アジアの海域で活躍していた琉球のライバルが出現してきたのである。 まず15世紀半ば以降、日本系の船舶に独占されるようになる中で、琉球は対日本、朝鮮の交易に関与できなくなっていく。そして16世紀に入るとポルトガルの勢力が東南アジアに進出するようになる。ポルトガルは1511年に中継貿易で栄えたマラッカ王国を滅ぼし、本格的に東南アジアそして中国南部へとその活躍の場を広げていく。 一方、いったんは沈静化しつつあった倭寇を始めとする海上勢力は16世紀に入ると再び活発化する。16世紀には明の商品経済は大きく発展し、沿岸部でも陶磁器、絹織物、綿織物等、手工業による産品が大量生産されるようになっていた。また16世紀半ば以降、日本では灰吹法の普及によって銀の生産高が急増していた。このような情勢下で中国沿岸の人たちが直接外国への輸出活動に乗り出さないように押しとどめておくこと自体に無理があった。中国製品と日本の銀との取引など、中国近海では密貿易が横行する。密貿易の従事者は中国沿岸の人たちばかりではなく日本人、そしてポルトガル人なども絡んでくる。16世紀半ば、中国近海は密貿易に従事する海上勢力が活発化し、琉球の交易活動にとって大きな脅威となっていた。 貿易量の減少は、琉球が使用する船舶の小型化に現れるようになる。1520年代以降、琉球が明で建造する船舶はそれまでよりも小型のものになる。強力なライバルが出現し、中国近海で海上勢力が活発に活動する中で、琉球の交易活動は衰退していき、1570年代には東南アジアでの活動も終止符を打つ。明は1567年には現状を追認して海禁を緩和し、これまで朝貢時に限っていた対外貿易を民間商人にも解禁する。その後、中国の民間商人が貿易活動に本格的に参入していくようになる。明への朝貢を軸として公的な中継貿易を展開するという琉球のスタイルは完全に時代遅れのものとなっていった。 明への朝貢を軸とした東アジア、東南アジアとの中継貿易の衰退は、琉球王国自体の危機を招いていくことになる。まず貿易収入の減少によって財政難が深刻化していく。また中継貿易の衰退によって航海に携わる人材も足りなくなり、琉球船舶の航海術の低下も見られるようになってきた。琉球王国としては明との冊封貿易が斜陽化する15世紀半ば以降、南西諸島内での領土拡大と統治機構の整備による中央集権化を進め、対外貿易の低下をカバーしていこうとした。15世紀から16世紀前半にかけて、南西諸島内での琉球王国の版図拡大に対して外部からの障害は無かった。しかしやがて16世紀後半以降、南九州の島津氏が力をつけ、琉球王国の脅威となっていく。また明との朝貢貿易、東南アジアとの貿易が衰退していく中で、必然的に日本、中でも島津氏が力を強めつつあった南九州との関係を深めざるを得なくなる。
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