王国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 02:10 UTC 版)
詳細は「ユーゴスラビア王国」を参照 第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。 1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。 憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年10月3日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。 国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。 1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。 アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。
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