王国の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:51 UTC 版)
1720年頃にモノモタパは独立を回復するが、この時点でモノモタパ王国はジンバブエ高原に所有していた領土のほぼ全てをチャンガミレ王国に奪われていた。交易の中心がザンベジ川流域に移るに伴い、1723年にモノモタパ王ニャマンドゥは首都をマゾウェ川流域の高原地帯からザンベジ川の低地に移転する。モノモタパ王国の勢力圏は東はテテ近郊のポルトガル人の領地、西はザンベジ川流域のズンボに限定され、かつて宮廷が置かれていた地域には東のショナ系グループが流入した。1735年に終わるニャマンドゥの治世の後、ニャマンドゥ家とボロマ家が王位を巡って対立し、1767年までに9人の王が現れた。1767年から1804年まで3人の王が即位するが、二つの家門の対立は解消されなかった。ポルトガル人との戦闘、内部抗争においてはニャイと呼ばれる戦士の集団が活躍したが、彼らの一部は主君への奉仕を放棄して賊徒となり、ズンボとテテの間を往来する商人たちを襲って税を取り立てた。 1804年から1884年まで、少なくとも6,7人の人間がモノモタパ王位に就いた。モノモタパ王国の威信と政治的影響力の低下は続き、王国の実態は領地を所有する有力家門の連合体に変化していた。1851年にモノモタパ王と面会した探険家デイヴィッド・リヴィングストンはポルトガルが宣伝する強力な国王像と落魄した実際の王の姿の差に驚き、かつての栄光の名残は100人ほどの妻妾だけだと日記に書き残している。彼らは「マンボ」の称号を用い、1917年にMambo Chiokoがポルトガルとの戦闘で殺害されるまで独立を保った。
※この「王国の崩壊」の解説は、「モノモタパ王国」の解説の一部です。
「王国の崩壊」を含む「モノモタパ王国」の記事については、「モノモタパ王国」の概要を参照ください。
- 王国の崩壊のページへのリンク