王位継承をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 15:20 UTC 版)
「ポーランド継承戦争」の記事における「王位継承をめぐって」の解説
1733年2月1日、ポーランド王アウグスト2世が崩御すると、スタニスワフ・レシチニスキがフランス王ルイ15世の支持を得て、ポーランド王に選出された。 神聖ローマ皇帝カール6世は、プロイセン及びロシア帝国と組み、姪の夫(兄の女婿)であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世を推した。同年10月、ロシアは3万の兵力でワルシャワに入城し、フリードリヒ・アウグストを王位に就けた。スタニスワフとフランス軍は北方に追われ、1734年6月に降伏した。 しかし、当時実質的にはフランス王国の宰相フルーリー枢機卿は歳出の削減を断行し、ポーランドに大軍を送り込むことを拒否した。援助金と少数の援軍でお茶を濁されたスタニスワフは1734年にダンツィヒ攻囲戦でダンツィヒが陥落するとフランスに亡命した。 フランスは、ロンバルディアの所有権と引き換えにサルデーニャ王国を自陣に引き入れた。新興のサルデーニャ王国はオーストリアの勢力をロンバルディアから駆逐することを求めていた。さらにスペイン王国はかつて、スペイン継承戦争の完全な終結の契機となったラシュタット条約でナポリとシチリアをハプスブルク家に割譲しており、その回復を求めてフランス側で参戦。その結果、戦争はライン川流域とイタリア半島で継続した。
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