王位継承の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 08:01 UTC 版)
「アンドラーシュ1世」の記事における「王位継承の危機」の解説
1057年、アンドラーシュ1世は当時5歳の嫡子シャラモンを王として戴冠させ、後継とするのを確実にしようとしていた。しかし、シャラモンの戴冠はベーラ公を激怒させた。彼はアンドラーシュの後継としてかつて任命されており、立腹したベーラは宮廷を去り領地を放置した。1058年9月、アンドラーシュは新皇帝ハインリヒ4世とマルヒフェルトで私的に会合し、和平を確定させた。和平の証として、幼いシャラモンとハインリヒ4世の妹ユディトの婚約が決められた。 皇帝との和平が締結したすぐ後、アンドラーシュはベーラ公にシャロモンの王位継承を受け入れるよう説得しようとした。しかしベーラは兄に対抗する兵を集めるためポーランドへ発った。 アンドラーシュは弟が反乱を計画していることを耳にし、自分の家族をオーストリアへ送って戦いに備えようとした。その最中にアンドラーシュは病となって歩行もおぼつかなくなってしまった。そのすぐ後、ベーラはポーランド軍を指揮してハンガリーへ戻り、王に対して決定的な勝利をおさめた。敗北したアンドラーシュはオーストリアへ逃れようとしたが、Theben峠(現在のオーストリア・ヴィーゼルブルク近郊)に来たところで馬上で倒れ、ベーラの配下に捕らえられた。アンドラーシュはジルク(現在ヴェスプレーム県の町)へ連行され、そこで死んだ。死後、ティハニ修道院に埋葬された。
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