王位継承と戴冠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 12:01 UTC 版)
「スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)」の記事における「王位継承と戴冠」の解説
1461年7月、ボスニア王スティエパン・トマシュが死去した。後の文献によれば、彼の死は息子であるスティエパン・トマシェヴィチや弟ラディヴォイの陰謀によるもので、マーチャーシュ1世やメフメト2世まで関与していたという。しかし歴史家たちは、トマシュ王が6月の時点で病に臥せっていたことから、この陰謀説を否定している。スティエパン・トマシェヴィチは長きにわたり王位を狙ってきた叔父ラディヴォイに気前よく領地を与えたことで、自身はスムーズにボスニア王位を継承することができた。1461年11月17日、スティエパン・トマシェヴィチはヤイツェで戴冠集会を開き、ピウス2世の特使2人が持ってきた王冠を使って戴冠した。この時期のボスニアの大貴族はコサチャ家の内紛などで分裂・混乱状態にあったが、この戴冠集会には皆が参じて、王国の一体性を再確認した。「ボスニア王」という称号はスティエパン・トヴルトコ1世に始まるもので、正式には「神の恩寵による、セルビア、ボスニア、ポモリェ、ザフムリェ、ダルマチア、クロアチア、西方領の王」と称していた。しかし実際には、セルビアはすでにオスマン帝国領(スメデレヴォ・サンジャク)となり、クロアチアは1390年代にハンガリーに奪われていた。またスティエパン・トマシェヴィチは、オスマン帝国が攻めてきたときに備えてダルマチアへの亡命を考えていたが、それすらもヴェネツィア共和国に許可を請わねばならなかった。 ボスニア王に即位したスティエパン・トマシェヴィチは、自らの地位を固めるため、直ちに王家内の不和の一掃にとりかかった。37歳の継母カタリナ・コサチャ=コトロマニッッチとの関係はトマシュ王の治世のころはあまり良好でなかったが、スティエパン・トマシェヴィチは彼女に王妃の称号と特権を維持することを認めることで関係を改善した。カタリナの父スティエパン・ヴクチッチ・コサチャは、王がカタリナを「自分の母として扱っている」とヴェネツィア当局に書き送っている。なお実母ヴォヤチャは、スティエパン・トマシェヴィチの即位したころにはすでに世を去っていた。コサチャはボスニア王国内で最強の大貴族で、トマシュ王とは延々と抗争を続けてきた人物だった。しかしスティエパン・トマシェヴィチが即位してからは、自分の実孫(スティエパン・トマシェヴィチの異母弟)シギスムンドを王位につかせようという動きを控えるようになった。おそらくこれは、コサチャ自身が、ボスニア王国が差し迫った危機を乗り越えるためには強く成人した王のもとで団結せねばならないと理解したためであった。スティエパン・トマシェヴィチはヴェネツィアの助言に従ってことを進め、王国内の全貴族の支持を得ることに成功した。続いて彼はボスニア経済の振興に取り組んだ。彼の治世の間に、ボスニアは金細工の輸出で大きな利益を上げ、経済的な繁栄を見せた。 しかし1461年夏、北方のクロアチアのバンであるパヴァオ・シュピランチッチが国境沿いのボスニア領の街を占領する事件が起きた。パヴァオはハンガリー王の名代としてクロアチアを統治しており、トマシュ王とは度々衝突を繰り返していた。夏の終わりまでに、スティエパン・トマシェヴィチとコサチャは協力してパヴァオを攻め、その領土を2人で分割する計画を立てていた。しかしヴェネツィアがこれを止めに入った。もしダルマチア防衛の要であるクリス要塞とオストロヴィツァ要塞をボスニアが攻め落としたら、その防衛体制が脆弱になっている隙を狙ってオスマン帝国に横取りされるという事態を恐れたためであった。 スティエパン・トマシェヴィチは教皇庁との関係を固めるためにも奔走した。彼はピウス2世に対し、司教、十字軍のための兵器、戴冠式用の冠、ハンガリー王マーチャーシュ1世へのとりなしを求める自暴自棄のような嘆願を送った。教皇の催促があれば、ハンガリー王は早急にボスニアへ援軍を送ってくるだろうという期待があった。11月17日、聖グレゴリオス・タウマトゥルゴス(ボスニアの守護聖人)の祝祭日に、かねてよりスティエパン・トマシェヴィチが招いていた教皇特使と新たに任命されたニコラ・モドルシュキ司教が到着し、ヤイツェの聖マリア教会でスティエパン・トマシェヴィチの戴冠式が行われた。これはボスニア史上最後の戴冠式であり、また唯一ローマから送られた冠を使って挙行された戴冠式でもあった。これは、父トマシュによるボスニア教会迫害とスティエパン・トマシェヴィチの精力的な対教皇政策の結果、王国がその歴史の最後の際にようやく真のカトリック国家と認められたことを示している。 遅ればせながらボスニア王家を聖別しようという動きもあったが、これはハンガリー王マーチャーシュ1世の厳重な反対にあった。彼は教皇がボスニア王の戴冠に関与したこと自体が、ハンガリー王の権利の侵害に当たるとみなしており、教皇にスティエパン・トマシェヴィチへの肩入れを止めるよう申し入れることまでした。ピウス2世とヴィテーズ・ヤーノシュ司教がハンガリーとボスニアの間を仲裁しようとした。交渉は困難なものだったが、1462年春にようやく両者を和解させることに成功した。マーチャーシュ1世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に聖イシュトヴァーンの王冠を奪われているという弱みを持っていたため、スティエパン・トマシェヴィチがその買戻しを援助することになった。またハンガリー王の支持を得るために、スティエパン・トマシェヴィチは数都市をハンガリーに割譲してマーチャーシュ1世に忠誠を誓い、さらにオスマン帝国への貢納を停止しなければならなくなった。
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