王位簒奪へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 22:49 UTC 版)
「第一次カスティーリャ継承戦争」の記事における「王位簒奪へ」の解説
「百年戦争」も参照 1366年、フランスに亡命していたエンリケは、フランス・アラゴン構成軍とイングランド傭兵からなる大軍をモンペリエで集結させ、フランス王とアラゴン王の援助を受けカスティーリャへ侵攻した(シャルル5世とアラゴン王ペドロ4世も各自参加した)。エンリケは、ペドロ1世を敗走させるのに成功した。 ペドロ1世は、イングランド王家の所領ガスコーニュにあるバイヨンヌへ亡命した。彼はエドワード黒太子に援助を申請し、見返りにカスティーリャの所領の分割を申し出、受諾された。 黒太子の率いるイングランド軍とともに、ペドロ1世はカスティーリャへ戻り、1367年に自身の王位を再度主張し、ナヘラの戦いで勝利してエンリケをフランスへ敗走させた。ところがペドロ1世は黒太子や彼の同盟者との取引を拒絶し、また疫病も相まって黒太子はまもなくカスティーリャを離れた。なお、この頃に、ペドロ1世から「黒太子のルビー」がエドワード黒太子に渡り、現在の大英帝国王冠の正面に据えられている。 1368年、エンリケとシャルル5世はトレド条約に署名し、陸上での軍事援助の見返りに、ビスケー湾上にカスティーリャ艦船を貸すことになった。 1369年にエンリケは再度侵攻、モンティエルの戦いでペドロ1世を謀殺し、王位の簒奪に成功した。彼はエンリケ2世を名乗り、すぐに公職からユダヤ人を追放し、自身の支配を堅固にした。この時期からカスティーリャは、戦争においてフランスとの同盟を行うようになった。
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