王位禅譲説について
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『中山世鑑』、『中山世譜』、『球陽』といった琉球の正史や、中国側で著された徐葆光の『中山伝信録』にも、義本は英祖に王権を譲位したと記している。糸数兼治は、『中山世鑑』と『中山世譜』それぞれにおいて、義本の英祖への禅譲に対する評価が異なることを指摘した。『中山世鑑』は、徳を備えた英祖に王位を譲ろうとした義本がいたからこそ、英祖は王として存在しえたと評価したが、『中山世譜』は、国が災厄に陥った状況下で、徳をおさめる努力もせず、自分に徳が無いと憂いただけの義本は、元から王になる資質を備えていなかったと批判している。評価の異なる理由として、『中山世鑑』の主編者である羽地朝秀と、『中山世譜』の蔡温が学んだ儒学の違いによるものとした。 歴史学者である伊波普猷、東恩納寛惇、比嘉春潮、高良倉吉、ジョージ・H・カーらは、義本の王位禅譲説について肯定的か、あるいは一応否定的に捉えているものの、詳細に分析や考察を行っていない。そこで、井上秀雄は英祖によるクーデター説を提唱している。理由として、義本の禅譲について書いた琉球の正史は信憑性に乏しく、義本側から調査する必要があることを挙げた。カーは、義本の治世に発生した飢饉・疫病が、琉球のみならず世界中で起きていたと述べ、井上は、世が世ならば平穏に過ごせていた義本に、この災難を克服するほどの政治手腕はなく、英祖が情勢不安の中に追い込まれた義本をうまく利用したのではないかと推測している。さらに、退位後に消息不明となったにも関わらず、義本と伝えられる墓が存在していることも挙げ、もし実際に王位を平和裏に譲ったのならば、英祖を葬ったとされる「浦添ようどれ」のような立派な陵墓を造営し、後世にわたっても墓の管理を怠らなかったはずであるとした。次に、井上は、琉球の正史が1609年の薩摩侵入以降に編纂されたことも理由に挙げている。正史の作成段階で、少なからず島津氏から検閲を受け、事実を書けない状況に置かれていたとし、島津氏が、同じく源氏の流れを汲むと伝えられる舜天王統が英祖という地元の人間に滅ぼされたとなると、自尊心を傷つけられ、クーデターを認めるはずがなく、歴史の改竄が行われていたであろうと述べた。
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