王位禅譲説についてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 王位禅譲説についての意味・解説 

王位禅譲説について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 14:39 UTC 版)

義本」の記事における「王位禅譲説について」の解説

中山世鑑』、『中山世譜』、『球陽』といった琉球正史や、中国側著された徐葆光の『中山伝信録』にも、義本英祖王権譲位した記している。糸数兼治は、『中山世鑑』と『中山世譜それぞれにおいて、義本英祖への禅譲対す評価異なることを指摘した。『中山世鑑』は、徳を備えた英祖王位譲ろうとした義本がいたからこそ英祖王として存在しえたと評価したが、『中山世譜』は、国が災厄陥った状況下で、徳をおさめる努力もせず、自分に徳が無いと憂いただけの義本は、元から王になる資質備えていなかったと批判している。評価異な理由として、『中山世鑑』の主編者である羽地朝秀と、『中山世譜』の蔡温学んだ儒学違いよるものとした。 歴史学者である伊波普猷東恩納寛惇比嘉春潮高良倉吉ジョージ・H・カーらは、義本の王位禅譲説について肯定的か、あるいは一応否定的に捉えているものの、詳細に分析考察行っていない。そこで、井上秀雄英祖によるクーデター説を提唱している。理由として、義本禅譲について書いた琉球正史信憑性乏しく義本側から調査する必要があることを挙げたカーは、義本治世発生した飢饉疫病が、琉球のみならず世界中で起きていたと述べ井上は、世が世ならば平穏に過ごせていた義本に、この災難克服するほどの政治手腕はなく、英祖情勢不安の中に追い込まれ義本をうまく利用したではないか推測している。さらに、退位後消息不明となったにも関わらず義本伝えられる墓が存在していることも挙げ、もし実際に王位平和裏譲ったのならば、英祖葬ったとされる浦添ようどれのような立派な陵墓造営し後世わたっても墓の管理を怠らなかったはずであるとした。次に井上は、琉球正史1609年薩摩侵入以降編纂されたことも理由挙げている。正史作成段階で、少なからず島津氏から検閲を受け、事実書けない状況置かれていたとし、島津氏が、同じく源氏流れを汲む伝えられる舜天王統英祖という地元人間滅ぼされとなると自尊心を傷つけられクーデター認めるはずがなく、歴史改竄が行われていたであろう述べた

※この「王位禅譲説について」の解説は、「義本」の解説の一部です。
「王位禅譲説について」を含む「義本」の記事については、「義本」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「王位禅譲説について」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「王位禅譲説について」の関連用語

1
10% |||||

王位禅譲説についてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



王位禅譲説についてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの義本 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS