王位継承とシン・シュム・リシルの反乱
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「シン・シャル・イシュクン」の記事における「王位継承とシン・シュム・リシルの反乱」の解説
前627年の半ば、アッシュルバニパルの息子で後継者として王位にあったアッシュル・エティル・イラニが死亡し、兄弟であるシン・シャル・イシュクンがアッシリア王位についた。何人かの歴史学者がアッシュル・エティル・イラニがシン・シャル・イシュクンのクーデターによって死亡したと述べているが、これを証明する史料は存在しない。シン・シャル・イシュクンの複数の碑文が、彼は「同等者」(例えば彼の兄弟など)たちの中から神々によって王に選ばれたと述べている。 また、アッシュル・エティル・イラニが死亡したのと概ね同じ頃、アッシリアの属王としてバビロンの王位にあったカンダラヌが死亡した。このためシン・シャル・イシュクンはバビロンの王にも即位した。このことはニップル、ウルク、シッパル、そしてバビロン市自体など、バビロニアの諸都市に彼が残した碑文によって証明されている。シン・シャル・イシュクンによるバビロンの支配は長くは続かず、彼がバビロン王位に就いてからほとんど間を置かずに将軍シン・シュム・リシルが反乱を起こした。シン・シュム・リシルはアッシュル・エティル・イラニの治世においてアッシリアの重要人物として権勢を誇っており、いくつもの反乱を鎮圧し、恐らく「事実上の」アッシリアの支配者であった。新たな王の即位が彼の地位を脅かした可能性があり、彼は反乱を起こして権力を掌握しようとしたのかもしれない。シン・シュム・リシルは宦官であり、アッシリア王位を主張した歴史上唯一の宦官であった。政治的野望を持たないと思われていたため一般に宦官は信頼されており、シン・シュム・リシルの試み以前には宦官の反乱の可能性が懸念されることはなかった。 シン・シュム・リシルはニップル市やバビロン市など北部バビロニアの都市の占領と支配に成功したが、3ヶ月後にシン・シャル・イシュクンによって破られた。両者とも支配権を行使したが、シン・シャル・イクシュンもシン・シュム・リシルも公的にバビロン王を名乗ったことはない(「アッシリア王」の称号のみを用いた)。これは、バビロニアにおいてある種の空位期間があったことを意味する。それにもかかわらず、一般的に現代の歴史学者はシン・シュム・リシルとシン・シャル・イシュクンをバビロニア王の一覧に含めており、古代の『バビロニア王名表』も同様である。
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