王位推戴と日清戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
大院君は嫡長孫永宣君の王位擁立の方策を側近2人に思案させた。その結果、数十万の農民軍を上京させて永宣君擁立を提唱させ、王宮内に浪人を隠匿しておき、農民軍を討伐するという名目で兵を出動させた機に、内外から宮中にいる日本軍を追放する。仮に日本が朝鮮軍及び農民軍の鎮圧に群を動員したとしても、そうなれば清国も座視しておけず鎮圧を名目に進軍してくるので、これと裏交渉して結託し日本軍を追い払うというものであった。このために吏曹判書であった永宣君を再び統衛使に異動させ兵権を掌握した。農民軍にも根回しして果川と水原に兵を結集させて漢陽を攻撃し、日本軍撃退計画を実行に移した。この戦いで一時的に日本側を後退させることができた。大院君は日本を追い払うことが出来たら、開化派の中心人物を殺害し、高宗を上王にして閔妃及び世子を廃位することを決定した。ところが、平壌の戦いに敗れて以後の清国側は大院君とその意を受けた東学軍が満足な行動を起こす間もなく敗戦へほぼ一直線の有様で、大院君は日本公使館に呼び出され、引退を勧められた。
※この「王位推戴と日清戦争」の解説は、「興宣大院君」の解説の一部です。
「王位推戴と日清戦争」を含む「興宣大院君」の記事については、「興宣大院君」の概要を参照ください。
- 王位推戴と日清戦争のページへのリンク