王位奪取まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 11:15 UTC 版)
フルダ年代記によれば、スヴァトプルクは歴史上名が知られている2代目のモラヴィア王ラスティスラフの甥であったという。彼は840年ごろに生まれた可能性が高い。12世紀の事実とフィクションが入り混じったドゥクリャ司祭の年代記によれば、スヴァトプルクの父はスヴェティミルといった。17世紀にモイミール朝の家系図を完成させたトマーシュ・ペシーナ・ス・チェコロドゥは、スヴァトプルクをボギスラフという人物の息子とした。 スヴァトプルクは大モラヴィアの中で860年代前半に台頭してきたとみられている。『メトディオスの生涯』によれば、スヴァトプルクはラスティスラフと共に、スラヴ語が話せる宣教師をモラヴィアに派遣してくれるよう東ローマ皇帝ミカエル3世に依頼した。ミカエル3世は、テッサロニキのスラヴ語方言に堪能なキュリロスとメトディオスの兄弟を派遣することにした。彼ら兄弟は863年にモラヴィアに到来し、すぐに宣教を始めた。彼らが古代教会スラヴ語に翻訳した典礼文書は、867年に教皇ハドリアヌス2世の認可を受けた。 然る程に、スラヴの公ロスティスラヴ(ラスティスラフ)がスヴァトプルクと共に、モラヴィアから皇帝ミカエルへ使者を送ってきて言うには、「我々は神の恩寵により繁栄を遂げ、また多くのキリスト教徒の師が、イタリアやギリシア、ドイツなどから我々の元へ至り、様々なことを伝えております。しかし我らスラヴは単純な民族であり、我々を真実へ導き思慮深く説いてくれる者がおりません。それゆえ、親切なる君よ、我らをすべての真実へと導くような者を送られんことを。」 —メトディオスの生涯
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