生い立ち、前半生、権力掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:13 UTC 版)
「ムーレイ・イスマーイール」の記事における「生い立ち、前半生、権力掌握」の解説
1645年にシジルマサで生まれたムーレイ・イスマーイール・イヴン・シャリーフは、タフィラルトの王子にしてアラウィー朝最初の君主ムーレイ・シャリーフの息子だった。彼の母親は黒人の奴隷だった。彼はムハンマド21代目の子孫アル=ハッサン・アダヒルの血筋にして、1266年にシジルマサに身を置いたムハンマド17代目の子孫アッ=ザキーヤの血筋だと主張した。 サアド朝スルターンのアフマド・マンスール死去後、モロッコは情勢不安定となり、彼の息子達が王位継承をめぐって争っていた。一方、国家は様々な軍事指導者や宗教権威者によって分断されていった。ジダン・アブー・マーリの治世が始まる1613年から、サアド朝は急激に弱体化した。ディーラーイー教団はモロッコ中心部を統治し、イッラーイ教団はスースからドラア川にかけて勢力を築き上げ、マラブーの聖者アル=アイヤーシは北西部の平原やタザまでの大西洋岸を所有した。サレ共和国はブー・レグレグ川河口の独立国家になり、テトゥアンはナクシス家の統治する都市国家となった。タフィラルトでは、二つの教団(ディーラーイーとイッラーイ)の影響を抑制する目的でアラウィー朝が地元住民に支持され、1631年から独立した首長国として存在した。 イスマーイールに先んずる3人の支配者が、父親のムーレイ・シャリーフおよび2人の異母兄弟サイディ・ムハンマドとムーレイ・ラシードだった。父シャリーフは1631年からアラウィー朝の初代君主として、タフィラルトをディーラーイー教団の権威が及ばないように保つことに成功した。1636年に父が退位すると、最年長の異母兄サイディ・ムハンマド・イブン・シャリーフが後を継いだ。サイディ治世のもと、アラウィー朝の領土はモロッコ北部のタフナとドラア川にまで拡大し、オスマン帝国の都市ウジダをも占領した。別の異母兄ムーレイ・アル=ラシードは謀反を起こすと、1664年8月ににウジダ近郊のアンガド平原の戦いで兄ムハンマドをようやく斃した。ムーレイ・イスマーイールはラシード支持を選んでおり、その報いとしてメクネスの首長に任命された。その地でイスマーイールは財を築くため現地の農業と商業に専念した。一方でラシードは1664年5月にフェズを征服したのちタフィラルトの王族となり、その後モロッコのスルターンとして君臨した。さらにラシードは、モロッコ南部で戦っている最中のモロッコ北部における軍事統治をイスマイールに委任し、1667年には彼をフェズのカリフかつ副王に封臣させた。 1668年にラシードはディーラーイー教団を征伐、2年かけてマラケシュでの反乱を鎮圧すると同都市を1669年に攻め落とした。 1670年4月6日、イスマーイールは兄ラシード立ち合いのもとフェズにて最初の結婚式を挙げた。ラシードはオートアトラス山脈の独立部族に対する討伐を続けていたが、1672年4月9日にマラケシュで落馬したのち死亡した。4月13日にラシードの訃報を受けたイスマーイールはフェズに馳せ参じて兄の財物を手に入れ、翌14日にモロッコのスルターンを26歳で宣明した · 。この宣明を受けて壮大な儀式が執り行われ、貴族、知識人、シャリーフを含むフェズの全住民が新たな君主に忠誠を誓った。フェズ王国の各部族や各都市も使節・代表団を派遣して忠誠を誓ったが、マラケシュとその周辺地域だけは使節を派遣しなかった。イスマーイールは水と気候に恵まれたメクネスを首都と定めた。
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