生い立ち、外交官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 06:45 UTC 版)
「ルピヤ・バンダ」の記事における「生い立ち、外交官として」の解説
南ローデシア(現在のジンバブエ)南マタベレランド州、グワンダに生まれる。両親は北ローデシア(ザンビア)に職を得、移る。バンダにはオランダ改革派教会の後援で教育を受けることができた。1960年政治活動を開始し、統一民族独立党(UNIP)青年部に入党する。1966年ホープ・ムワンザ・マクルと結婚し5人の子を儲けた。1960年代には、UNIP北欧代表を務める。 1965年駐エジプト(アラブ連合共和国)大使に就任。エジプト大使時代にアンゴラの反政府武装勢力「アンゴラ全面独立民族同盟」(UNITA)の指導者、ジョナス・サヴィンビとは友人であった。 1967年4月7日駐米大使。駐米大使を2年間務めた後、帰国しルラル開発公社総裁、国家農業マーケティング委員会ゼネラルマネージャーを歴任する。その後、再び外交界に戻り、国連総会代表となりナミビア独立問題などを担当した。1975年外相に就任。アンゴラ内戦の停戦に尽力した。
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