王国の内争、オスマン帝国の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 07:37 UTC 版)
「ボスニア王国」の記事における「王国の内争、オスマン帝国の進出」の解説
15世紀に入ると国王と諸侯の抗争が頻発し、オスマン帝国、ハンガリー、セルビア公国が内訌に介入した。トヴルトコ1世の死後に弱体の国王が相次いで即位すると大貴族の王位への影響力が増し、王国で選挙王政の原則が構築される。 1398年に即位した国王スチェパン・オストヤ(英語版)は外国との関係を緊密にしようと努力した。1403年にオストヤは大貴族との協定を破って、大貴族の一人であるパヴレ・クレシッチの氏族地を没収する。オストヤはクレシッチの亡命先であるドゥブロヴニクと彼の引き渡しを巡って争うが敗北し、国内の大貴族はより結束を強めた。1404年にオストヤは廃位されてハンガリーに追放され、この年からボスニアで選挙王政が確立する。 オストヤの廃位後にスチェパン・トヴルトコ2世(英語版)が国王に選出されるが、トヴルトコ2世の即位を知ったハンガリー王ジグモンド(神聖ローマ皇帝ジギスムント)はボスニアを執拗に攻撃したハンガリーへの敗戦によって支持を失ったトヴルトコ2世は1409年に国外に亡命し、選挙を経てオストヤが国王に再選した。オストヤの復位後、大貴族のフルヴォイエはオスマン軍の力を借りてボスニア内に駐屯するハンガリー軍を追放しようと試みた。1415年にハンガリーから報復の軍隊が派兵され、ラシュヴァ渓谷(英語版)近辺の戦いでボスニア・オスマン連合軍はハンガリーに勝利を収めた。戦後、ボスニアはセルビアの支配下に置かれていたスレブレニツァの銀山を奪回する。 1421年にオストヤの長子スチェパン・オストイチが王位を追われ、トヴルトコ2世が復位する。1428年にボスニアはオスマン帝国に従属、1430年代にセルビア公国がオスマン帝国から圧迫を受けると東ボスニアにセルビア人難民がなだれ込んだ。1448年にフムの支配者であるステファン・ヴクチッチ・コサチャはボスニアへの臣従を破棄して「フムと沿岸地方のヘルツェグ(公爵)」を名乗り、ステファンの支配地はヘルツェゴヴィナと呼ばれるようになる。国王スチェパン・トマシュ(英語版)はドゥブロヴニクと同盟を結んでヴクチッチに対抗し、孤立したヴクチッチは1454年にボスニア、ドゥブロヴニクと和約を結んだ。 やがてオスマン帝国はボスニアへの圧力も強め、1451年にヴルフボスナ(現在のサラエヴォ)が陥落する。1448年から1453年にかけて、ヴルフボスナ北部にボスニア最初のオスマン帝国の行政区画が設置された。1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープルが陥落、1459年6月にセルビアがオスマン帝国の軍門に下ると、オスマン軍のボスニアへの進路が完全に開かれる。1460年にボスニアはオスマン軍の攻撃を受けるが、教皇庁、ハンガリーから援軍は送られなかった。
※この「王国の内争、オスマン帝国の進出」の解説は、「ボスニア王国」の解説の一部です。
「王国の内争、オスマン帝国の進出」を含む「ボスニア王国」の記事については、「ボスニア王国」の概要を参照ください。
- 王国の内争、オスマン帝国の進出のページへのリンク