アチュタ・デーヴァ・ラーヤとは? わかりやすく解説

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アチュタ・デーヴァ・ラーヤ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/30 07:07 UTC 版)

アチュタ・デーヴァ・ラーヤ
అచ్యుత దేవ రాయలు
ヴィジャヤナガル
アチュタ・デーヴァ・ラーヤとその妃
在位 1529年 - 1542年
死去 1542年
子女 ヴェンカタ1世
王朝 トゥルヴァ朝
父親 トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカ
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アチュタ・デーヴァ・ラーヤテルグ語:అచ్యుత దేవ రాయలు, タミル語:அச்சுத தேவ ராயன், Achyuta Deva Raya, 生年不詳 - 1542年)は、南インドヴィジャヤナガル王国、トゥルヴァ朝の君主(在位:1529年 - 1542年)。

生涯

アチュタ・デーヴァ・ラーヤの事跡が記されたカンナダ語碑文(1539年、ティンマラプラ)

1529年、兄王クリシュナ・デーヴァ・ラーヤが死亡し、宰相のヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤとクリシュナ・デーヴァ・ラーヤの娘婿ラーマ・ラーヤがその後継をめぐり争い、前者の推した王弟アチュタ・デーヴァ・ラーヤが王となった。

だが、アチュタ・デーヴァ・ラーヤとヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤはすぐに不仲となり、ヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤはケーララ地方の領主らと組んで王に反乱を起こしたが、これは鎮圧された。

その後、アチュタ・デーヴァ・ラーヤは兄王クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世末期にビジャープル王国に奪われたライチュール地方に兵を送り、この地方を奪還した。

一方、1530年代、武将のサラカラージュ・チンナ・ティルマラという人物がケーララ地方に遠征するなどして功を挙げたが、彼の姉妹はアチュタ・デーヴァ・ラーヤの妃であった。

とはいえ、1540年頃にアチュタ・デーヴァ・ラーヤはラーマ・ラーヤの姦計に陥り、晩年にはその実権を奪われていた。 1542年、アチュタ・デーヴァ・ラーヤは死亡し、その幼い息子のヴェンカタ1世が王位を継承した。

ギャラリー

アチュタ・デーヴァ・ラーヤの治世に建設されたシヴァ寺院(ティンマラプラ) 
 
アチュタ・デーヴァ・ラーヤの事跡が記されたカンナダ語碑文(1536年、ヴィッタラ寺院) 
 

参考文献

  • 辛島昇 『新版 世界各国史7 南アジア史』 山川出版社、2004年 
  • 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年 

関連文献

  • Prof K.A. Nilakanta Sastry, History of South India, From Prehistoric times to fall of Vijayanagar, 1955, OUP, New Delhi (Reprinted 2002)

関連項目




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