ラーマ・ラーヤの専横
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/03 14:45 UTC 版)
「ヴィジャヤナガル王国」の記事における「ラーマ・ラーヤの専横」の解説
1529年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの弟アチュタ・デーヴァ・ラーヤが即位すると、宰相ヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤが起こした反乱を鎮圧するとともに、ビジャープル王国からライチュール地方を取り戻した。だが、治世の晩年には、兄王の娘婿にあたるアーラヴィードゥ家のラーマ・ラーヤ(ラーマ・ラージャとも)に実権を奪われた。 1542年にアチュタ・デーヴァ・ラーヤが亡くなると、その幼少の息子ヴェンカタ1世が後を継ぐものの、宮廷内で王位の継承をめぐって激しい争いが起こり殺され、末弟のランガ・ラーヤの息子サダーシヴァ・ラーヤが王位につけられた。だが、ヴィジャヤナガル王国の実権は摂政になったラーマ・ラーヤとその弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤに握られていた。 ラーマ・ラーヤの基本政策は国内を安定させるとともに、バフマニー朝分裂後の北方のデカン・スルターン朝を互いに抗争させて弱体化させるというものであった。しかし、デカン・スルターン朝もいいように利用されていることに気づき始めて、ついにビジャープル王国、ゴールコンダ王国、アフマドナガル王国、ベラール王国、ビーダル王国は同盟を結び、ヴィジャヤナガルへと進撃した。 1565年1月、ヴィジャヤナガル軍はクリシュナ川の北方のターリコータ(ラークシャシ・タンガティ)で5王国連合軍に撃破された。ターリコータの戦いでラーマ・ラーヤ自身も捕らえられて処刑され、ヴィジャヤナガル王国の兵10万人が殺されたと伝えられる。 また、5王国連合軍は勢いに乗り、ヴィジャヤナガル王国の首都ヴィジャヤナガルも破壊した。これにより、王都は廃墟と化し、これ以降ヴィジャヤナガル王国は徐々に衰退の道をたどっていくこととなった。
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