サダーシヴァ・ラーヤとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > サダーシヴァ・ラーヤの意味・解説 

サダーシヴァ・ラーヤ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/10 04:43 UTC 版)

サダーシヴァ・ラーヤ
సదాశివ రాయలు
ヴィジャヤナガル
在位 1542年 - 1569年

死去 1576年
王朝 トゥルヴァ朝
父親 ランガ・ラーヤ(トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの息子)
テンプレートを表示

サダーシヴァ・ラーヤテルグ語:సదాశివ రాయలు, タミル語:சதாசிவ ராயன், Sadasiva Raya, 生年不詳 - 1576年)は、南インドヴィジャヤナガル王国、トゥルヴァ朝の君主(在位:1542年 - 1569年)。

生涯

ヴィジャヤナガル王国の摂政トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの息子ランガ・ラーヤの息子として生まれた。

1542年ヴィジャヤナガルアチュタ・デーヴァ・ラーヤの死後、その息子ヴェンカタ1世が王位を継承した。だが、彼はまもなくその摂政であったサラカラージュ・チンナ・ティルマラに殺害され、その際に多くの王族もともに殺害されたが、サダーシヴァ・ラーヤは運よくグッティ城に逃げることに成功した[1]

その後、サダーシヴァ・ラーヤは宮廷の実力者ラーマ・ラーヤ とその弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤに王として擁立されるに至り、ヴィジャヤナガルへと進撃した。

1543年中頃までに、ラーマ・ラーヤはサラカラージュ・チンナ・ティルマラを殺してヴィジャヤナガルを制圧し、サダーシヴァ・ラーヤは即位式を挙げ、ヴィジャヤナガル王となった。だが、当然ながら王国の実権は摂政となったラーマ・ラーヤとティルマラ・デーヴァ・ラーヤに握られていた。

1565年1月、ラーマ・ラーヤはデカン・スルターン朝との戦いに斃れ(ターリコータの戦い)、弟のティルマラ・デーヴァ・ラーヤはサダーシヴァ・ラーヤを連れ、南方のペヌコンダへ遷都する形で避難した。

1569年、サダーシヴァ・ラーヤは摂政ティルマラ・デーヴァ・ラーヤに王位を簒奪され、ここにトゥルヴァ朝は滅亡し、新たにアーラヴィードゥ朝が創始されることとなった。

サダーシヴァ・ラーヤは王位を簒奪されたのち、1576年まで生存していたという[2]

脚注

参考文献

  • 辛島昇 『新版 世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年。 
  • 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。 

関連文献

  • Prof K.A. Nilakanta Sastry, History of South India, From Prehistoric times to fall of Vijayanagar, 1955, OUP, New Delhi (Reprinted 2002)

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「サダーシヴァ・ラーヤ」の関連用語

サダーシヴァ・ラーヤのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



サダーシヴァ・ラーヤのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのサダーシヴァ・ラーヤ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS